有島武郎「惜みなく愛は奪う」(01) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(01)

[#以下の2つの英文はすべてイタリック文字、横書き]
Sometimes with one I love, I fill myself with rage, for fear I effuse unreturn'd love;
But now I think there is no unreturn'd love―the pay is certain, one way or another;
(I loved a certain person ardently, and my love was not return'd;
Yet out of that, I have written these songs.)
[#右寄せ]― Walt Whitman ―

I exist as I am―that is enough;
If no other in the world be aware, I sit content,
And if each and all be aware, I sit content.
One world is aware, and by far the largest to me, and that is myself;
And whether I come to my own to-day, or in ten thousand or ten million years,
I can cheerfully take it now, or with equal cheerfulness I can wait.
[#右寄せ]― Walt Whitman ―
[#改ページ]

        一

 太初《はじめ》に道《ことば》があったか行《おこない》があったか、私はそれを知らない。然《しか》し誰がそれを知っていよう、私はそれを知りたいと希《こいねが》う。そして誰がそれを知りたいと希わぬだろう。けれども私はそれを考えたいとは思わない。知る事と考える事との間には埋め得ない大きな溝《みぞ》がある。人はよくこの溝を無視して、考えることによって知ることに達しようとはしないだろうか。私はその幻覚にはもう迷うまいと思う。知ることは出来ない。が、知ろうとは欲する。人は生れると直ちにこの「不可能」と「欲求」との間にさいなまれる。不可能であるという理由で私は欲求を抛《なげう》つことが出来ない。それは私として何という我儘《わがまま》であろう。そして自分ながら何という可憐《かれん》さであろう。
 太初の事は私の欲求をもってそれに私を結び付けることによって満足しよう。私にはとても目あてがないが、知る日の来《きた》らんことを欲求して満足しよう。
 私がこの奇異な世界に生れ出たことについては、そしてこの世界の中にあって今日まで生命を続けて来たことについては、私は明《あきら》かに知っている。この認識を誇るべきにせよ、恥ずべきにせよ、私はごまかしておくことが出来ない。私は私の生命を考えてばかりはいない。確かに知っている。哲学者が知っているように知っているのではないかも知れない。又深い生活の冒険者が知っているように知っているのではないかも知れない。然し私は知っている。この私の所有を他のいかなるものもくらますことは出来ない。又他のいかなる威力も私からそれを奪い取ることは出来ない。これこそは私の存在が所有する唯《ただ》一つの所有だ。
 恐るべき永劫《えいごう》が私の周囲にはある。永劫は恐ろしい。或る時には氷のように冷やかな、凝然としてよどみわたった或るものとして私にせまる。又或る時は眼もくらむばかりかがやかしい、瞬間も動揺流転をやめぬ或るものとして私にせまる。私はそのものの隅《すみ》か、中央かに落された点に過ぎない。広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。私は永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する如く私もまた永劫の中に存在する。私は点となって生れ出た。そして瞬《またた》く中《うち》に跡形もなく永劫の中に溶け込んでしまって、私はいなくなるのだ。それも私は知っている。そして私はいなくなるのを恐ろしく思うよりも、点となってここに私が私として生れ出たことを恐ろしく思う。
 然し私は生れ出た。私はそれを知る。私自身がこの事実を知る主体である以上、この私の生命は何といっても私のものだ。私はこの生命を私の思うように生きることが出来るのだ。私の唯一の所有よ。私は凡《すべ》ての懐疑にかかわらず、結局それを尊重愛撫《あいぶ》しないでいられようか。涙にまで私は自身を痛感する。
 一人の旅客が永劫の道を行く。彼を彼自身のように知っているものは何処《どこ》にもいない。陽の照る時には、彼の忠実な伴侶《はんりょ》はその影であるだろう。空が曇り果てる時には、そして夜には、伴侶たるべき彼の影もない。その時彼は独《ひと》り彼の衷《うち》にのみ忠実な伴侶を見出《みいだ》さねばならぬ。拙《つたな》くとも、醜くとも、彼にとっては、彼以上のものを何処に求め得よう。こう私は自分を一人の旅客にして見る時もある。
 私はかくの如くにして私自身である。けれども私の周囲に在《あ》る人や物やは明かに私ではない。私が一つの言葉を申し出る時、私以外の誰が、そして何が、私がその言葉をあらしめるようにあらしめ得るか。私は周囲の人と物とにどう繋《つな》がれたら正しい関係におかれるのであろう。如何《いか》なる関係も可能ではあり得ないのか。可能ならばそれを私はどうして見出せばいいのか。誰がそれを私に教えてくれるのだろう。……結局それは私自身ではないか。
 思えばそれは寂しい道である。最も無力なる私は私自身にたよる外の何物をも持っていない。自己に矛盾し、自己に蹉跌《さてつ》し、自己に困迷する、それに何の不思議があろうぞ。私は時々私自身に対して神のように寛大になる。それは時々私の姿が、母を失った嬰児《えいじ》の如く私の眼に映るからだ。嬰児は何処をあてどもなく匍匐《ほふく》する。その姿は既に十分憐《あわ》れまれるに足る。嬰児は屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》過って火に陥る、若《も》しくは水に溺《おぼ》れる。そして僅《わず》かにそこから這《は》い出ると、べそをかきながら又匍匐を続けて行く。このいたいけな姿を憐れむのを自己に阿《おもね》るものとのみ云い退けられるものであろうか。縦令《たとい》道徳がそれを自己耽溺《たんでき》と罵《ののし》らば罵れ、私は自己に対するこの哀憐《あいれん》の情を失うに忍びない。孤独な者は自分の掌《てのひら》を見つめることにすら、熱い涙をさそわれるのではないか。
 思えばそれは嶮《けわ》しい道でもある。私の主体とは私自身だと知るのは、私を極度に厳粛にする。他人に対しては与え得ないきびしい鞭打《むちうち》を与えざるを得ないものは畢竟《ひっきょう》自身に対してだ。誘惑にかかったように私はそこに導かれる。笞《しもと》にはげまされて振い立つ私を見るのも、打撲に抵抗し切れなくなって倒れ伏す私を見るのも、共に私が生きて行く上に、無くてはならぬものであるのを知る。その時に私は勇ましい。私の前には力一杯に生活する私の外には何物をも見ない。私は乗り越え乗り越え、自分の力に押され押されて未見の境界へと険難を侵して進む。そして如何なる生命の威脅にもおびえまいとする。その時傷の痛みは私に或る甘さを味《あじわ》わせる。然しこの自己緊張の極点には往々にして恐ろしい自己疑惑が私を待ち設けている。遂に私は疲れ果てようとする。私の力がもうこの上には私を動かし得ないと思われるような瞬間が来る。私の唯一つの城廓なる私自身が見る見る廃墟《はいきょ》の姿を現わすのを見なければならないのは、私の眼前を暗黒にする。
 けれどもそれらの不安や失望が常に私を脅かすにもかかわらず、太初《はじめ》の何であるかを知らない私には、自身を措《お》いてたよるべき何物もない。凡ての矛盾と渾沌《こんとん》との中にあって私は私自身であろう。私を実価以上に値《ね》ぶみすることをしまい。私を実価以下に虐待することもしまい。私は私の正しい価の中にあることを勉めよう。私の価値がいかに低いものであろうとも、私の正しい価値の中にあろうとするそのこと自身は何物かであらねばならぬ。縦《よ》しそれが何物でもないにしろ、その外に私の採るべき態度はないではないか。一個の金剛石を持つものは、その宝玉の正しい価値に於《おい》てそれを持とうと願うのだろう。私の私自身は宝玉のように尊いものではないかも知れない。然し心持に於ては宝玉を持つ人の心持と少しも変るところがない。
 私は私のもの、私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。
 若し私のこの貧しい感想を読む人があった時、この出発点を首肯することが出来ないならば、私はその人に更にいい進むべき何物をも持ち得ない。太初が道《ことば》であるか行《おこない》であるかを(考えるのではなく)知り切っている人に取っては、この感想は無視さるべき無益なものであろう。私は自分が極《きわ》めて低い生活途上に立っているものであることをよく知りぬいている。ただ、今の私はそこに一番堅固な立場を持っているが故に、そこに立つことを恥じまいとするものだ。前にもいったように、私はより高い大きなものに対する欲求を以《もっ》て、知り得たる現在に安住し得るのを自己に感謝する。





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