有島武郎「惜みなく愛は奪う」(11) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(11)

        一二

 ここまでは縦令《たとい》たどたどしいにせよ、私の言葉は私の意味しようとするところに忠実であってくれた。然《しか》しこれから私が書き連ねる言葉は、恐らく私の使役に反抗するだろう。然し縦令反抗するとも私はこれで筆を擱《お》くことは出来ない。私は言葉を鞭《むちう》つことによって自分自身を鞭って見る。私も私の言葉もこの個性表現の困難な仕事に対して蹉《つまず》くかも知れない。ここまで私の伴侶《はんりょ》であった(恐らくは少数の)読者も、絶望して私から離れてしまうかも知れない。私はその時読者の忍耐の弱さを不満に思うよりも私自身の体験の不十分さを悲しむ外《ほか》はない。私は言葉の堕落をも尤《とが》めまい。かすかな暗示的表出をたよりにしてとにかく私は私自身を言い現わして見よう。
 無元から二元に、二元から一元に。保存から整理に、整理から創造に。無努力から努力に、努力から超努力に。これらの各※[#二の字点、1-2-22]の過程の最後のものが今表現せらるべく私の前にある。
 個性の緊張は私を拉《らつ》して外界に突貫せしめる。外界が個性に向って働きかけない中《うち》に、個性が進んで外界に働きかける。即ち個性は外界の刺戟《しげき》によらず、自己必然の衝動によって自分の生活を開始する。私はこれを本能的生活(impulsive life)と仮称しよう。
 何が私をしてこの衝動に燃え立たせるか。私は知らない。然し人は自然界の中にこの衝動の仮りの姿を認めることが出来ないだろうか。
 地球が造られた始めにはそこに痕跡《こんせき》すら有機物は存在しなかった。そこに、或る時期に至って有機物が現われ出た。それは或る科学者が想像するように他の星体から隕石《いんせき》に混入して地表に齎《もたら》されたとしても、少くとも有機物の存在に不適当だった地球は、いつの間にかその発達にすら適合するように変化していたのだ。有機物の発生に次いで単細胞の生物が現われ出た。そして生長と分化とが始まった。その姿は無機物の結晶に起る成長らしい現象とは多くの点に於て相違していた。単細胞生物はやがて複細胞生物となり、一は地上に固着して植物となり、一は移動性を利用して動物となった。そして動物の中から人類が発生するまでに、その進化の過程には屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》創造と称せらるべき現象が続出した。続出したというよりも凡《すべ》ての過程は創造から創造への連続といっていい。習性及び形態の保存に固着してカリバンのように固有の生活にしがみ附こうとする生物を或る神秘な力が鞭《むちう》ちつつ、分化から分化へと飛躍させて来た。誰がこの否む可《べか》らざる目前の事実に驚異せずにはいられよう。地上の存在をかく導き来った大きな力はまた私の個性の核心を造り上げている。私の個性は或る已《や》みがたい力に促されて、新たなる存在へ躍進しようとする。その力の本源はいつでも内在的である。内発的である。一つの花から採取した月見草の種子が、同一の土壌に埋められ、同一の環境の下に生《お》い出《いで》ても、多様多趣の形態を取って萠《も》え出ずるというドフリスの実験報告は、私の個性の欲求をさながらに翻訳《ほんやく》して見せてくれる。若《も》しドフリスの Mutation Theory が実験的に否認される時が来たとしても、私の個性は、それは単にドフリスの実験の誤謬《ごびゅう》であって、自然界の誤謬ではないと主張しよう。少くとも地球の上には、意識的であると然らざるとに係わらず、個性認識、個性創造の不思議な力が働いているのだ。ベルグソンのいう純粋持続に於ける認識と体験は正《まさ》しく私の個性が承認するところのものだ。個性の中には物理的の時間を超越した経験がある。意識のふりかえりなる所謂《いわゆる》反省によっては掴《つか》めない経験そのものが認識となって現われ出る。そこにはもう自他の区別はない。二元的な対立はない。これこそは本当の生命の赤裸々な表現ではないか。私の個性は永くこの境地への帰還にあこがれていたのだ。
 例えば大きな水流を私は心に描く。私はその流れが何処《いずこ》に源を発し、何処に流れ去るのかを知らない。然しその河は漾々《ようよう》として無辺際から無辺際へと流れて行く。私は又その河の両岸をなす土壌の何物であるかをも知らない。然しそれはこの河が億劫《おくごう》の年所《ねんしょ》をかけて自己の中から築き上げたものではなかろうか。私の個性もまたその河の水の一滴だ。その水の押し流れる力は私を拉して何処かに押し流して行く。或る時には私は岸辺近く流れて行く。そして岸辺との摩擦によって私を囲む水も私自身も、中流の水にはおくれがちに流れ下る。更に或る時は、人がよく実際の河流で観察し得るように、中流に近い水の速力の為めに蹴押《けお》されて逆流することさえある。かかる時に私は不幸だ。私は新たなる展望から展望へと進み行くことが出来ない。然し私が一たび河の中流に持ち来《きた》されるなら、もう私は極《きわ》めて安全でかつ自由だ。私は河自身の速力で流れる。河水の凡てを押し流すその力によって私は走っているのだけれども、私はこの事実をすら感じない。私は自分の欲求の凡てに於て流れ下る。何故ならば、河の有する最大の流速は私の欲求そのものに外ならないから。だから私は絶対に自由なのだ。そして両岸の摩擦の影響を受けねばならぬ流域に近づくに従って、私は自分の自由が制限せられて来るのを苦々《にがにが》しく感じなければならない。そこに始めて私自身の外に厳存する運命の手が現われ出る。私はそこでは否むべからざる宿命の感じにおびえねばならぬ。河の水は自らの位置を選択すべき道を知らぬ。然し人間はそれを知っている。そしてその選択を実行することが出来る。それは人間の有する自覚がさせる業である。
 人は運命の主であるか奴隷であるか。この問題は屡※[#二の字点、1-2-22]私達を悒鬱《ゆううつ》にする。この問題の決定的批判なしには、神に対する悟りも、道徳律の確定も、科学の基礎も、人間の立場も凡て不安定となるだろう。私もまたこの問題には永く苦しんだ。然し今はかすかながらもその解決に対する曙光《しょこう》を認め得た心持がする。
 若し本能的生活が体験せられたなら、それを体験した人は必ず人間の意志の絶対自由を経験したに違いない。本能の生活は一元的であってそれを牽制《けんせい》すべき何等の対象もない。それはそれ自身の必然な意志によって、必然の道を踏み進んで行く。意志の自由とは結局意志そのものの必然性をいうのではないか。意志の欲求を認めなければ、その自由不自由の問題は起らない。意志の欲求を認め、その意志の欲求が必然的であるのを認め、本能的境地に置かれた意志は本能そのものであって、それを遮《さえぎ》る何者もないことを知ったなら、私達のいう意志の自由はそのまま肯定せられなければならぬ。
 智的生活以下に於てはそういう訳には行かない。智的生活は常に外界との調節によってのみ成り立つ。外界の存在なくしてはこの生活は働くことが出来ない。外界は常に智的生活とは対立の関係にあって、しかも智的生活の所縁になっている。かくしてその生活は自由であることが出来ない。のみならず智的生活の様式は必ず過去の反省によって成り立つという事を私は前に申し出した。既になし遂げられた生活は――縦令《たとい》それが本能的生活であっても――なし遂げられた生活である。その形は復《また》と変易《へんえき》することがない。智的生活は実にこの種の固定し終った生活の認識と省察によって成り立つのである。その省察の持ち来たす概念がどうして宿命的な色彩を以《もっ》て色づけられないでいよう。だから人の生活は或《あるい》は宿命的であり或は自由であり得るといおう。その宿命的である場合は、その生活が正しき緊張から退縮した時である。正しい緊張に於て生活される間は個性は必ず絶対的な自由の意識の中にある。だから一層正しくいえば、根柢的《こんていてき》な人間の生活は自由なる意志によって導かれ得るのだ。




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