有島武郎「惜みなく愛は奪う」(14) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(14)

        一五

 人間は人間だ。野獣ではない。天使でもない。人間には人間が大自然から分与された本能があると私はいった。それならその本能とはどんなものであるかと反問されるだろう。私は当然それに答えるべき責任を持っている。私は貧しいなりにその責任を果そう。私の小さな体験が私に書き取らせるものをここに披瀝《ひれき》して見よう。
 人間によって切り取られた本能の流れを私は今まで漫然とただ本能と呼んでいた。それは一面に許さるべきことである。人間の有する本能もまた大自然の本能の一部なのだから。然しここまで私の考察を書き進めて来ると、私はそれを特殊な名によって呼ぶのを便利とする。
 人間によって切り取られた本能――それを人は一般に愛と呼ばないだろうか。老子が道の道とすべきは常の道にあらずといったその道も或《あるい》はこの本能を意味するのかも知れない。孔子が忠信のみといったその忠信も或はこれを意味するのかも知れない。釈尊の菩提心《ぼだいしん》、ヨハネのロゴス、その他無数の名称はこの本能を意味すべく構出されたものであるかも知れない。然し私は自分の便宜の為めに仮りにそれを愛と名づける。愛には、本能と同じように既に種々な不純な属性的意味が膠着《こうちゃく》しているけれども、多くの名称の中で最も専門的でなく、かつ比較的に普遍的な内容をその言葉は含んでいるようだ。愛といえば人は常識的にそれが何を現わすかを朧《おぼ》ろげながらに知っている。
 愛は人間に現われた純粋な本能の働きである。然し概念的に物事を考える習慣に縛られている私達は、愛という重大な問題を考察する時にも、極《きわ》めて習慣的な外面的な概念に捕えられて、その真相とは往々にして対角線的にかけへだたった結論に達していることはないだろうか。
 人は愛を考察する場合、他の場合と同じく、愛の外面的表現を観察することから出発して、その本質を見窮《みきわ》めようと試みないだろうか。ポーロはその書翰《しょかん》の中に愛は「惜みなく与え」云々《うんぬん》といった、それは愛の外面的表現を遺憾なくいい現わした言葉だ。愛する者とは与える者の事である。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする。彼からは今まであったものが失われて、見たところ貧しくはなるけれども、その為めには彼は憂えないのみか、却って欣喜《きんき》し雀躍《じゃくやく》する。これは疑いもなく愛の存するところには何処にも観察される現象である。実際愛するものの心理と行為との特徴は放射することであり与えることだ。人はこの現象の観察から出発して、愛の本質を帰納しようとする。そして直ちに、愛とは与える本能であり放射するエネルギーであるとする。多くの人は省察をここに限り、愛の体験を十分に噛《か》みしめて見ることをせずに、逸早くこの観念を受け入れ、その上に各自の人生観を築く。この観念は私達の道徳の大黒柱として認められる。愛他主義の倫理観が構成される。そして人間生活に於ける最も崇高な行為として犠牲とか献身とかいう徳行が高調される。そして更にこの観念が、利己主義の急所を衝《つ》くべき最も鋭利な武器として考えられる。
 そう思われることを私は一概に排斥するものではない。愛が智的生活に持ち来たされた場合には、そう結論されるのは自然なことだ。智的生活にあっては愛は理智的にのみ考察されるが故に、それは決して生活の内部にあって働くままの姿では認められない。愛は生活から仮りに切り放されて、一つの固定的な現象としてのみ観察される。謂《い》わば理智が愛の周囲――それはいかに綿密であろうとも――のみを廻転し囲繞《いにょう》している。理智的にその結論が如何《いか》に周匝《しゅうそう》で正確であろうとも、それが果して本能なる愛の本体を把握し得た結論ということが出来るだろうか。
 本能を把握するためには、本能をその純粋な形に於て理解するためには、本能的生活中に把握される外に道はない。体験のみがそれを可能にする。私の体験は、縦《よ》しそれが貧弱なものであろうとも――愛の本質を、与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。
 他のためにする行為を利他主義といい、己《おの》れのためにする行為を利己主義というのなら、その用語は正当である。何故ならば利するという言葉は行為を表現すべき言葉だからである。然し倫理学が定義するように、他のためにせんとする衝動若《も》しくは本能を認めて、これを利他主義といい、己れのためにせんとする衝動若しくは本能を主張してこれを利己主義というのなら、その用語は正鵠《せいこう》を失している。それは当然愛他主義愛己主義という言葉で書き改められなければならないものだ。利と愛との両語が自明的に示すが如く、利は行為或は結果を現わす言葉で、愛は動機或は原因を現わす言葉であるからだ。この用語の錯誤が偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》愛の本質と作用とに対する混同を暴露してはいないだろうか。即《すなわ》ち人は愛の作用を見て直ちにその本質を揣摩《しま》し、これに対して本質にのみ名づくべき名称を与えているのではないか。又人は愛が他に働く動向を愛他主義と呼び、己れに働く動向を利己主義と呼ぶならわしを持っている。これも偶※[#二の字点、1-2-22]人が一種の先入僻見《へきけん》を以て愛の働き方を見ている証拠にはならないだろうか。二つの言葉の中《うち》、物質的な聯想《れんそう》の附帯する言葉を己れへの場合に用い、精神的な聯想を起す言葉を他への場合に用いているのは、恐らく愛が他を益する時その作用を完《まっと》うし得るという既定の観念に制せられているのを現わしているようだ。この愛の本質と現象との混淆《こんこう》から、私達の理解は思いもよらぬ迷宮に迷い込むだろう。




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