有島武郎「惜みなく愛は奪う」(17) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(17)

        一八

 愛は個性の生長と自由とである。そうお前はいい張ろうとするが、と又或る人は私にいうだろう。この世の中には他の為めに自滅を敢《あ》えてする例がいくらでもあるがそれをどう見ようとするのか。人間までに発達しない動物の中にも相互扶助の現象は見られるではないか。お前の愛己主義はそれをどう解釈する積りなのか。その場合にもお前は絶対愛他の現象のあることを否定しようとするのか。自己を滅してお前は何ものを自己に獲得しようとするのだ。と或る人は私に問い詰めるかも知れない。科学的な立場から愛を説こうとする愛己主義者は、自己保存の一変態と見るべき種族保存の本能なるものによってこの難題に当ろうとしている。然《しか》しそれは愛他主義者を存分に満足させないように、又私をも満足させる解釈ではない。私はもっと違った視角からこの現象を見なければならぬ。
 愛がその飽くことなき掠奪《りゃくだつ》の手を拡げる烈《はげ》しさは、習慣的に、なまやさしいものとのみ愛を考え馴《な》れている人の想像し得るところではない。本能という言葉が誤解をまねき易《やす》い属性によって煩《わずら》わされているように、愛という言葉にも多くの歪《ゆが》んだ意味が与えられている。通常愛といえば、すぐれて優しい女性的な感情として見られていはしないか。好んで愛を語る人は、頭の軟《やわら》かなセンティメンタリストと取られるおそれがありはしまいか。それは然し愛の本質とは極《きわ》めてかけ離れた考え方から起った危険な誤解だといわなければならぬ。愛は優しい心に宿り易くはある。然し愛そのものは優しいものではない。それは烈しい容赦のない力だ。それが人間の生活に赤裸のまま現われては、却って生活の調子を崩《くず》してしまいはしないかと思われるほど容赦のない烈しい力だ。思え、ただ仮初《かりそ》めの恋にも愛人の頬《ほお》はこけるではないか。ただいささかの子の病にも、その母の眼はくぼむではないか。
 個性はその生長と自由とのために、愛によって外界から奪い得るものの凡《すべ》てを奪い取ろうとする。愛は手近い所からその事業を始めて、右往左往に戦利品を運び帰る。個性が強烈であればある程、愛の活動もまた目ざましい。若《も》し私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。
 だからその場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然であり得ることだ。然し二人の愛が互に完全に奪い合わないでいる場合でも、若し私の愛が強烈に働くことが出来れば、私の生長は益※[#二の字点、1-2-22]《ますます》拡張する。そして或る世界が――時間と空間をさえ撥無《はつむ》するほどの拡がりを持った或る世界が――個性の中にしっかりと建立《こんりゅう》される。そしてその世界の持つ飽くことなき拡充性が、これまでの私の習慣を破り、生活を変え、遂には弱い、はかない私の肉体を打壊するのだ。破裂させてしまうのだ。
 難者のいう自滅とは畢竟《ひっきょう》何をさすのだろう。それは単に肉体の亡滅を指すに過ぎないではないか。私達は人間である。人間は必ずいつか死ぬ。何時《いつ》か肉体が亡びてしまう。それを避けることはどうしても出来ない。然し難者が、私が愛したが故に死なねばならぬ場合、私の個性の生長と自由とが失われていると考えるのは間違っている。それは個性の亡失ではない。肉体の破滅を伴うまで生長し自由になった個性の拡充を指しているのだ。愛なきが故に、個性の充実を得切らずに定命《じょうみょう》なるものを繋《つな》いで死なねばならぬ人がある。愛あるが故に、個性の充実を完《まっと》うして時ならざるに死ぬ人がある。然しながら所謂《いわゆる》定命の死、不時の死とは誰が完全に決めることが出来るのだ。愛が完うせられた時に死ぬ、即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何処《どこ》に正しい定命の死があろう。愛したものの死ほど心安い潔《いさぎよ》い死はない。その他の死は凡て苦痛だ。それは他の為めに自滅するのではない。自滅するものの個性は死の瞬間に最上の生長に達しているのだ。即ち人間として奪い得る凡てのものを奪い取っているのだ。個性が充実して他に何の望むものなき境地を人は仮りに没我というに過ぎぬ。
 この事実を思うにつけて、いつでも私に深い感銘を与えるものは、基督《キリスト》の短い地上生活とその死である。無学な漁夫と税吏《みつぎとり》と娼婦《しょうふ》とに囲繞《いにょう》された、人眼《ひとめ》に遠いその三十三年の生涯にあって、彼は比類なく深く善い愛の所有者であり使役者であった。四十日を荒野に断食して過した時、彼は貧民救済と、地上王国の建設と、奇蹟的《きせきてき》能力の修得を以ていざなわれた。然し彼は純粋な愛の事業の外には何物をも択《えら》ばなかった。彼は智的生活の為めには、即ち地上の平安の為めには何事をも敢えてなさなかった。彼はその母や弟とは不和になった。多くの子をその父から反《そむ》かせた。ユダヤ国を攪乱《かくらん》するおそれによってその愛国者を怒らせた。では彼は何をしたか。彼はその無上愛によって三世にわたっての人類を自己の内に摂取してしまった。それだけが彼の已《や》むに已まれぬ事業だったのだ。彼が与えて与えてやまなかった事実は、彼が如何に個性の拡充に満足し、自己に与えることを喜びとしたかを証拠立てるものである。「汝《なんじ》自身の如く隣人を愛せよ」といったのは彼ではなかったか。彼は確かに自己を愛するその法悦をしみじみと知っていた最上一人ということが出来る。彼に若し、その愛によって衆生《しゅじょう》を摂取し尽したという意識がなかったなら、どうしてあの目前の生活の破壊にのみ囲まれて晏如《あんじょ》たることが出来よう。そして彼は「汝等もまた我にならえ」といっている。それはこの境界《きょうがい》が基督自身のものではなく、私達凡下の衆もまた同じ道を歩み得ることを、彼自身が証言してくれたのだ。
 やがて基督が肉体的に滅びねばならぬ時が来た。彼は苦しんだ。それに何の不思議があろう。彼は自分の愛の対象を、眼もて見、耳もて聞き、手もて触れ得なくなるのを苦しんだに違いない。又彼の愛の対象が、彼ほどに愛の力を理解し得ないのを苦しんだに違いない。然し最も彼を苦しめたものは、彼の愛がその掠奪の事業を完全に成就したか否かを迷った瞬間にあったであろう。然し遂に最後の安心は来た「父よ(父よは愛よである)我れわが身を汝に委《ゆだ》ぬ」。そして本当に神々《こうごう》しく、その辛酸に痩《や》せた肉体を、最上の満足の為めに脚《あし》の下に踏み躙《にじ》った。
 基督の生涯の何処に義務があり、犠牲があるのだろう。人は屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》いう、基督は有らゆるものを犠牲に供し、救世主たるの義務の故に、凡ての迫害と窮乏とを甘受し、十字架の死をさえ敢えて堪え忍んだ。だからお前達は基督の受難によって罪からあがなわれたのだ。お前達もまた彼にならって、犠牲献身の生活を送らなければならないと。私は私一個として基督が私達に遺《のこ》して行った生活をかく考えることはどうしても出来ない。基督は与えることを苦痛とするような愛の貧乏人では決してなかったのだ。基督は私達を既に彼の中に奪ってしまったのだ。彼は私の耳に囁《ささや》いていう、「基督の愛は世の凡ての高きもの、清きもの、美しきものを摂取し尽した。悪《あ》しきもの、醜きものも又私に摂取されて浄化した。眼を開いて基督の所有の如何に豊富であるかを見るがいい。基督が与えかつ施したと見えるもの凡ては、実は凡て基督自身に与え施していたのだ。基督は与えざる一つのものもない。しかも何物をも失わず、凡てのものを得た。この大歓喜にお前もまた与《あず》かるがいい。基督のお前に要求するところはただこの一つの大事のみだ。お前が縦令《たとい》凡てを施し与えようとも永遠の生命を失っていたらそれが何になる。お前は偽善者を知っているか。それは犠牲献身という美名をむさぼって、自己に同化し切らない外物に対して浪費する人をいうのだ。自己に同化し切ったものに施すのは即ち自己に施すのだという、世にも感謝すべき事実を認め得ない程に、愛の隠れ家を見失ってしまった人のことだ。浪費の後の苦々しい後味を、強《し》いて笑いにまぎらすその歪《ゆが》んだ顔付を見るがいい。それは悲しい錯誤だ。お前が愛の極印のないものを施すのは一番大きな罪だと知らねばならぬ。そして愛の極印のあるものは、仮令お前がそれを地獄の底に擲《なげう》とうとも、忠実な犬のように逸《いち》早くお前の膝許《ひざもと》に帰って来るだろう。恐れる事はない。事実は遂に伝説に打勝たねばならぬのだ」と。
 本当にそうだ。私は愛を犠牲献身の徳を以て律し縛《いまし》めていてはならぬ。愛は智的生活の世界から自由に解放されなければならぬ。この発見は私にとっては小さな発見ではなかった。小さな弱い経験ではあるが、私の見たところも存分にこれを裏書きする。私が創作の衝動に駆られて容赦なく自己を検察した時、見よ、そこには生気に充《み》ち満ちた新しい世界が開展されたではないか。実生活の波瀾《はらん》に乏しい、孤独な道を踏んで来た私の衷《うち》に、思いもかけず、多数の個性を発見した時、私は眼を見張って驚かずにはいられなかったではないか。私が眼を据えて憚《はばか》りなく自己を見つめれば見つめるほど、大きな真実な人間生活の諸相が明瞭に現われ出た。私の内部に充満して私の表現を待ち望んでいるこの不思議な世界、何だそれは。私は今にしてそれが何であるかを知る。それは私の祖先と私とが、愛によって外界から私の衷に連れ込んで来た、謂《い》わば愛の捕虜の大きな群れなのだ。彼らは各※[#二の字点、1-2-22]自身の言葉を以て自身の一生を訴えている。そして私の心にさえよき準備ができているならば、それを聞き分け、見分け、その真の生命に於《おい》て再現するのは可能なことであるのを私は知る。私は既に十分に持っている。芸術制作の素材には一生かかって表現してもなおあり余るものを持っている。外界から奪い取る愛の働きを無視しては、どうしてこの明らさまな事実を説明することが出来ようぞ。しかも私の愛はなお足ることを知らずに奪おうとしている。何んという飽くことを知らぬ烈しいそれは力だろう。
 私達を貫く本能の力強さ。人間に表われただけでもそれはかくまでに力強い。その力の総和を考えることは、私達の思考力のはかなさを暴露するようなものであろうけれども、その限られた思考力にさえ、それは限りなく偉大な、熱烈なものとして現われるではないか。




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