有島武郎「惜みなく愛は奪う」(18) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(18)

        一九

 私は他を愛する形に於て凡《すべ》てを私の個性の中に奪っている。私はより正しきものを奪い取らんが為めに、より善く、より深く愛せねばならぬ。自己を愛することがかつ深くかつ善いに従って、私は他から何を摂取しなければならぬかをより明瞭にし得《う》るだろう。
 愛する以上は、憎まねばならぬ一面のあるのを忘れることが出来ない、愛憎のかなたにある愛、そういうものがあるだろうか。憎愛の二極を撥無《はつむ》して、陰陽を統合した太極というような形の愛、それは理論的に考えて見られぬでもないことではあるが、かくの如きものが果して私達人間の生活を築き上げてゆく上になくてはならぬ重大問題だろうか。少くとも私には、それは欲求であり得る外価値を持っていない。神の世界に於ては、或《あるい》は超越的形而上学《けいじじょうがく》の世界に於ては、かかることは捨ておかれぬ喫緊事として考えられねばならぬだろう。然《しか》しながら一箇の人間としての私に取っては、それよりも大切な事は私が愛しかつ憎むという動かすことの出来ない厳然たる事実があるばかりだ。この一見矛盾した二つの心的傾向の共存は、私をいらだたせかつ不幸にする。何故ならば、私の個性はいかなる場合にも純一無雑な一路へとのみ志しているからである。
 然しながらよく考えて見ると、愛と憎みとは、相反馳《あいはんち》する心的作用の両極を意味するものではない。憎みとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることが出来ないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。それは私が憎んだところの外界と、そして私がそれに対して擲《なげう》ったおくりものとである。愛する場合に於ては、例えば私が飢えた人を愛して、これに一飯を遣《や》ったとすれば、その愛された人と一飯とは共に還って来て私自身の骨肉となるだろう。憎しみの場合に於ても、例えば私が私を陥れたものを憎んで、これに罵詈《ばり》を加えたとすれば、憎まれた人も、その醜い私の罵詈も共に還って来て私の衷《うち》に巣喰うのだ。それには愛によっての獲得と同じように永く私の衷にあって消え去ることがない。愛はそれによって、不消化な石ころを受け入れた胃腑《いのふ》のような思いをさせられる。私の愛の本能が正しく働いている限りは、それは愛の衷に溶けこまずに、いつまでも私の本質の異分子の如くに存続する。私は常住それによって不快な思いをしなければならぬ。誰か憎まない人があろう。それだから人間として誰か悒鬱《ゆううつ》な眉《まゆ》をひそめない人があろう。人間が現わす表情の中、見る人を不快にさせる悒鬱な表情は、実に憎みによって奪い取って来た愛の鬼子《おにご》が、彼の衷にあって彼を刺戟《しげき》するのに因《よ》るのではないか。私はよくこの苦々しい悒鬱を知っている。それは人間が辛《かろ》うじて到達し得た境界から私が一歩を退転した、その意識によって引き起されるのだろう。多少でも愛することの楽しさを知った私は、憎むことの苦しさを痛感する。それはいずれも本能のさせる業ではあるけれども、愛するより憎むことが如何《いか》に楽しからぬものであるかを知って苦しまねばならぬ。恐らくはよく愛するものほど、強く憎むことを知っているだろう。同時に又憎むことの如何に苦しいものであるかを痛感するだろう。そしてどうかして憎まずにあり得ることに対して骨を折るだろう。
 憎まない、それは不可能のことだろうか。人間としては或は不可能であるかも知れない。然し少くとも憎悪《ぞうお》の対象を減ずることは出来る。出来る筈《はず》であるのみならず、私達は始終それを勉めているではないか。愛と憎みとが若《も》し同じ本能から生れたものであるとすれば、それは必ず成就さるべきものだ。如何なるものも、或る視角から憎むべきものならば、他の視角から必ず愛すべきものであることに私達は気附くだろう。ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器は私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。私はその用途を私が考えていたよりは他の方面に用いることによって、その器を私に役立てることが出来るだろう。その時には私の憎みは、もう愛に変ってしまうだろう。若し憎みの故にその器を取って直ちに粉砕してしまう人があったとすれば、その人は愛することに於てもまた同様に浅くしか愛し得ない人だ。愛の強い人とは執着の強い人だ。憎みの場合に於いても、かかる人の憎みは深刻な苦痛によって裏付けられる。従って容易にその憎しみの対象を捨ててはしまわない。そしてその執着の間に、ふとしたきっかけにそれを愛の対象に代えてしまうだろう。
 かくして私の愛が深く善くなるに従って、私はより多くを愛によって摂取し、摂取された凡てのものは、あるべき排列をなして私の衷《うち》に同化されるだろう。かくて私の衷にある完《まった》き世界が新たに生れ出るだろう。この大歓喜に対して私は何物をも惜みなく投げ与えるだろう。然しその投げ与えたものが如何に高価なものであろうとも、その歓喜に比しては比較にもならぬほど些少《さしょう》なものであるのを知った時、況《ま》してや投げ与えたと思ったその贈品すら、畢竟《ひっきょう》は復《ま》た自己に還って来るものであるのを発見した時、第三者にはたとい私の生活が犠牲と見え、献身と見えようとも、私自身に取っては、それが獲得であり生長であるのを感じた時、その時、私が徹底した人生の肯定者ならざる何人であり得よう。凡ての人がかくの如く本能の要求によって生活し、相交渉した時、そこに本当の健全な社会が生れ出ないで何が生れ出よう。凡ての行為が義務でなく遊戯であらねばならぬとの要求が真に感ぜられた時、人間の生活がこれから如何に進展せねばならぬかの示唆は適確に与えられるのだ。この本能を抑圧する必要のある、若しくは抑圧すべき道徳の上に成り立たねばならぬとの主張の上に据えられた人類の集団生活には見遁《みのが》すことの出来ないうそがある。このうそを、あらねばならぬことのように力説し、人間の本能をその従属者たらしめることに心血を瀉《そそ》いで得たりとしている道学者は災いである。即ち智的生活に人間活動の外囲を限って、それを以て無上最勝の一路となす道学者は災いである。その人はいつか、本能的体験の不足から人間生活の足手まといとなっていた事を発見する悲しみに遇《あ》わねばならぬだろうから。




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