有島武郎「惜みなく愛は奪う」(21) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(21)

 愛の純粋なる表現を更に切実に要求する人は、地上の職業にまで狭い制限を加えて、思想家若しくは普通意味せられるところの芸術家とならずにはいられないだろう。その人々は愛が汚されざらんが為めに、先《ま》ず愛の表現に役立たしむべき材料の厳選を行う。思想に増して純粋な材料を、私達人間は考えつくことが出来ない。哲人又は信仰の人などといわれる人は――若しそれがまがいものでなかったなら――ここにその出発点を持っているに違いない。普通意味せられるところの芸術家、即《すなわ》ち芸術を仕事としている人々は思想を具象化するについて、思想家のように抽象的な手段によらず、具体的な形に於てせんとするものだ。然しながらその具体的な形の中《うち》、及ぶだけ純粋に近い形に依ろうとする。その為めに彼等は洗練された感覚を以《もっ》て洗練された感覚に訴えようとする。感覚の世界は割合に人々の間に共通であり、愛にまで直接に飜訳され易いからである。感覚の中でも、実生活に縁の近い触覚若しくは味覚などに依るよりも、非功利的な機能を多量に有する視覚聴覚の如きに依ろうとする。それらの感覚に訴える手段にもまた等差が生ずる。
 同じ言葉である。然しその言葉の用い方がいかに芸術家の稟資を的確に表わし出すだろう。或る人は言葉をその素朴な用途に於て使用する。或る人は一つの言葉にも或る特殊な意味を盛《も》り、雑多な意味を除去することなしには用いることを肯《がえ》んじない。散文を綴《つづ》る人は前者であり、詩に行く人は後者である。詩人とは、その表現の材料を、即ち言葉を智的生活の桎梏《しっこく》から極度にまで解放し、それによって内部生命の発現を端的にしようとする人である。だからその所産なる詩は常に散文よりも芸術的に高い位置にある。私は僅《わず》かばかりの小説と戯曲とを書いたものであるが、そのささやかなる経験からいっても、表現手段として散文がいかに幼稚なものであるかを感じないではいられない。私の個性が表現せられるために、私は自分ながらもどかしい程の廻り道をしなければならぬ。数限りもない捨石が積まれた後でなければ、そこには私は現われ出て来ない。何故そんなことをしていねばならぬかと、私は時々自分を歯がゆく思う。それは明かに愛の要求に対する私の感受性が不十分であるからである。私にもっと鋭敏な感受性があったなら、私は凡てを捨てて詩に走ったであろう。そこには詩人の世界が截然《せつぜん》として創《つく》り上げられている。私達は殆んど言葉を飛躍してその後ろの実質に這入《はい》りこむことが出来る。そしてその実質は驚くべく純粋だ。
 或はいう人があるかも知れない。私達の生活は昔のような素朴な単純な生活ではない。それは見透《みとお》しのつかぬほど複雑になり難解になっている。それが言葉によって現わされる為めには、勢い周到な表現を必要とする。詩は昔の人の為めにだ。そして小説と戯曲とは今の人の為めにだ、と。
 私はそうは思わない。表現さるべき最後のものは昔も今も異ることがないのだ。縦令《たとい》外面的な生活が複雑になろうとも、言葉の持つ意味の長い伝統によって蕪雑《ぶざつ》になっていようとも、一人の詩人の徹視はよく乱れた糸のような生活の混乱をうち貫き、言葉をその純粋な形に立ち帰らせ、その手によって書き下された十行の詩はよく、生の統流を眼前に展《ひら》くに足るべきである。然しそれをなし得るためには、詩人は必ず深い愛の体験者でなければならぬ。出でよ詩人よ。そして私達が直下に愛と相対し得《う》べき一路を開け。
 私は又詩にも勝った表現の楔子《けっし》を音楽に於て見出そうとするものだ。かの単独にしては何等の意味もなき音声、それを組合せてその中に愛を宿らせる仕事はいかに楽しくも快いことであろうぞ。それは人間の愛をまじり気なく表現し得る楽園といわなければならない。ハアモニーとメロディーとは真に智的生活の何事にも役立たないであろう。これこそは愛が直接に人間に与えた愛子だといっていい。立派な音楽は聴く人を凡ての地上の羈絆《きはん》から切り放す。人はその前に気化して直ちに運命の本流に流れ込む。人間にとっては意味の分らない、余りに意味深い、感激が熱い涙を誘い出す。そして人は強い衝動によって推進の力を与えられる。それが何処《どこ》へであるかは知られない。ただ望ましい方向にであるのは明かに感知される。その時人は愛に乗り移られているのだ。
 美術の世界に於て、未来派の人々が企図するところも、またこの音楽の聖境に対する一路の憧憬《どうけい》でないといえようか。色もまた色そのものには音の如く意味がない。面もまた面そのものには色の如く意味がない。然しながら形象の模倣再現から這入ったこの芸術は永くその伝統から遁《のが》れ出ることが出来ないで、その色その面を形の奴婢《ぬひ》にのみ充《あ》てていた。色は物象の面と空間とを埋めるために、面は物象の量と積とを表わすためにのみ用いられた。そして印象派の勃興《ぼっこう》はこの固定概念に幽《かす》かなゆるぎを与えた。即ち絵画の方向に於て、色と色との関係に価値をおくことが考えつけられた。色が何を表わすかということより、色と色との関係の中に何が現われねばならぬかと云うことが注意され出した。これは物質から色の解放への第一歩であらねばならぬ。しかしこの傾向は未来派に至って極度に高調された。色は全く物質から救い出された。色は遂に独立するに至った。
 然し音楽が成就しただけのことを未来派は絵画に於て成就し得ているだろうかという問題はおのずから別に考えられなければならぬ。私はこれらの芸術に対して何等具体的の知識を持っているものでない。だから私はかかる比較論に来ると口をつぐむ外はない。けれども未来派の傾向を全然斥《しりぞ》けらるべきものだと主張する人に対しては、私は以上の見地からこの派の傾向の可能性を申し出ることが出来はしないかと思っている。若し物象が具象化されなければ満足が出来ないと人がいうならば、その人の為めには、文学の領内に詩と小説とが併存するように、これまでのような絵画を存続させておくのもまた妨げないだろう。然しながら美術家の個性が益※[#二の字点、1-2-22]《ますます》高調せられねばならぬ時はやがて来るだろう。その時になって未来派のような傾向が起るのは、私の立場からいうと、極めて自然なことであるといわねばならぬのだ。
 人間は十分に恵まれている。私達は愛の自己表現の動向を満足すべき有らゆる手段を持っている。厘毛の利を争うことから神を創ることに至るまで、偽らずに内部の要求に耳を傾ける人ほど、彼は裕《ゆた》かに恵まれるであろう。凡ての人は芸術家だ。そこに十二分な個性の自由が許されている。私は何よりもそれを重んじなければならない。




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