有島武郎「惜みなく愛は奪う」(22) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(22)

        二二

 私はまた愛を出発点として社会生活を考えて見よう。
 社会生活は個人生活の延長であらねばならぬ。個人的欲求と社会的欲求とが軒輊《けんち》するという考えは根柢的《こんていてき》に間違っている。若《も》しそこに越えることの出来ない溝渠《こうきょ》があるというならば、私は寧《むし》ろ社会生活を破壊して、かの孤棲《こせい》生活を営む獅子《しし》や禿鷹《はげたか》の習性に依ろう。
 然《しか》しかかる必要のないことを私の愛は知っている。社会生活に対する概念の中に誤った所があるか、個人生活の概念の中に誤った所があるかによって、この不合理な結論が引き出されると私は知っている。
 先《ま》ず個人の生活はその最も正しい内容によって導かれなければならぬ。正しき内容とは何をいうのか。智的生活が習性的生活を是正する時には、私は智的生活に従って習性的生活を導かねばならぬ。本能的生活が智的生活を是正する時には、私は本能的生活に従って智的生活を導かねばならぬ。即ち常に習性的生活の上に智的生活を、智的生活の上に本能的生活を置くことを第一の仕事と心懸けねばならぬ。正しき内容とはそれだけのことだ。
 習性的生活と智的生活との関係についてはいうまでもあるまい。習性的生活が智的生活の指導によって適合を得なければならないというのは自明のことであるから。
 然しながら智的生活が本能的生活によって指導されねばならぬということについては不服を有《も》つ人がないとはいえない。智的生活は多くの人々の経験の総和が生み出した結果であり約束であるが、本能的生活は純粋個性内部の衝動であるが故に、必ずしも社会生活と順応することが出来ないだろうとの杞憂《きゆう》は起りがちに見えるからである。
 けれども私は私の意味する本能的生活の意味が正しく理解されることを希《ねが》う。本能の欲求はいつでも各人の個性全体の上に働くところのものだ。その衝動は常に個性全体の飽満を伴って起る。この例は卑陋《ひろう》であるかも知れないが、理解を容易ならしむる為めにいって見ると、ここに一人の男がいて、肉慾の衝動に駆られて一人の少女を辱《はず》かしめたとしよう。肉慾も一つの本能である。その衝動の満足を求めたことは、そのまま許されることではないか。そう或る人は私に詰問するかも知れない。私はその人に問い返して見よう。あなたが考える前に先ずあなたをその男の位置におけ。あなたが肉慾的にのみその少女を欲しているのに、あなたはその少女に近づく時(全く固定的な道徳観念を度外視しても)、何等の不満をもあなたの個性に感じなかったか。あなたはまたあなたと見知らない少女の姿全体に、極度の恐怖と憎悪《ぞうお》とを見出したろう。あなたはそれに少しでも打たれなかったか。そしてそこに苦い味を感じなかったか。若しあなたに人並みの心があるなら、私のこの問に応じて否と答えるの外はあるまい。だから私はいう。その場合あなたが本能の衝動らしく思ったものは、精神から切り放された肉慾の衝動にしか過ぎなかったのだ。だからあなたはその衝動を行為に移す第一の瞬間に既に見事に罰せられてしまったのだ。若しあなたが本当に本能の(個性全体の)衝動によってその少女を欲するなら、あなたは先ずその少女にあなたの切ない愛を打ち明けるだろう。そして少女が若しあなたの愛に酬《むく》いるならば、その時あなたはその少女をあなたの衷《うち》に奪い取り、少女はまたあなたを彼女の衷に奪い取るだろう。その時あなたと少女とは二人にして一人だ(前にもいった如く)。そしてあなたは十分な飽満な感じを以て心と肉とにおいて彼女と一体となることが出来る。その時、その事の前に何等の不満もなく、その事の後には美しい飽満があるばかりだろう。(これは余事にわたるが好奇な人のために附け加えておく。若し少女がその人の愛に酬いることを拒まねばならなかった場合はどうだ。その場合でも彼の個性は愛したことによって生長する。悲しみも痛みもまた本能の糧《かて》だ。少女は永久に彼の衷に生きるだろう。そして更に附け加えることが許されるなら、彼の肉慾は著しくその働きを減ずるだろう。そこには事件の精神化がおのずから行われるのだ。若し然しその人の個性がその事があったために分散し、精神が糜爛《びらん》し、肉慾が昂進《こうしん》したとするならば、もうその人に於て本能の統合は破れてしまったのだ。本能的生活はもうその人とは係わりはない。然しそんな人を智的生活が救うことが出来るか。彼は道徳的に強《し》いて自分の行為を律して、他の女に対してその肉慾を試みるようなことはしないかも知れない。然しその瞬間に彼は偽善者になり了《おお》せてしまっているのだ。彼はその心に姦淫《かんいん》しつづけなければならないのだ。それでもそれは智的生活の平安の為めには役立つかも知れない。けれどもかくの如き平安によって保たれる人も社会も災いである。若し彼が或る動機から、猛然としてもとの自己に眼覚《めざ》める程緊張したならばその時彼は本能的生活の圏内に帰還しているのだ。だから智的生活の圏内に於ける生活にあってこそ、知識も道徳もなくて叶《かな》わぬものであるが、本能的生活の葛藤《かっとう》にあっては、智的生活の生んだ規範は、単にその傷を醜く蔽《おお》う繃帯《ほうたい》にすらあたらぬことを知るだろう)。その時精神は精神ではなく、肉慾は肉慾ではない。両者は全くその区別を没して、愛の統流の中に溶けこんでしまう。単なる形の似よりから凡ての現われと同じものと見るのは、甚《はなはだ》しき愚昧《ぐまい》な見断である。
 この一つの例は私の本能に対する見解を朧《おぼ》ろげながらも現わし得たではなかろうか。かくの如く本能は、全体的なそして内部的な個性の要求だ。然るに智的生活はこれとは趣きを異にしている。縦令智的生活は、長い間かかった、多くの人の経験の集成から成り立つものだとはいえ、その個性に働く作用はいつでも外部からであって、しかも部分的である。その外部的である訳は、それが誰の内部生活からも離れて組み立てられたものであるからだ。それは生活の全部を統率するために、人間によって約束された規範であるからだ。それなら何故部分的であるか。智的生活にあっては義務と努力とが必要な条件として申し出られているからだ。義務にも努力にも、人間の欲求の或る部分の棄捨が予想されている。或る欲求を圧抑するという意識なしには、義務も努力も実行されはしない。即ち個性の全要求の満足という事は行われ得ない約束にある。若しかかる約束にある智的生活が生活の基調をなし、指導者とならなければならぬとしたら、人間は果して晏如《あんじょ》としていることが出来るだろうか。私としてはそれを最上のものとして安んじていることが出来ない。私はその上に、私の個性の全要求を満足し、しかもその満足が同時によいことであるべき生活を追い求めるだろう。そしてそれは本能的生活に於《おい》て与えられるのだ。本能的生活によって智的生活は内面化されなければならぬ。本能的生活によって智的生活は統合化されなければならぬ。かくいえば、私が、本能的生活は智的生活を指導せねばならぬと主張した理由が明かになると思う。
 然らば社会生活は私がいった個人の生活過程を逆にでも行かねばならぬというのか。社会生活にあっては、智的生活をもって本能的生活の指導者たらしめ、若しくは習性的生活をもって智的生活の是正者たらしめねばならぬとでもいうのか。若し果してそうならば、社会生活と個人生活とはたしかに軒輊《けんち》するであろう。私にはそうは思われない。社会の欲求もまたその終極はその生活内部の全体的飽満にあらねばならぬ。縦令《たとい》現在、その生活の基調は智的生活におかれてあるとも、その欲求としては本能的生活が目指されていねばならぬ。社会がその社会的本能によって動く時こそ、その生活は純一無雑な境地に達するだろう。
 ここで或る人は多分いうだろう。お前の言葉は明かにその通りだ。進化の過程としては、社会もまた本能的生活に這入《はい》ることを、その理想とせねばならぬ。けれども現在にあっては、個人には本能的生活の消息を解し、それを実行し得る人があるとしても、社会はまだかかる境地に達せんには遠い距離がある。かかる状態にあって、個人生活と社会生活とが軒輊するのは当然なことではないかと。
 私はこの抗議を肯《がえん》じよう。然しこの場合、改めねばならぬのは個人の生活であるか、社会の生活であるか、どちらだ。両者の間に完全な調和を持ち来《きた》すために進歩させねばならぬ生活は、どちらの生活だ。社会生活の現状を維持する為めに、私達はここまで進んで来た個人生活を停止し若しくは退歩させて、社会生活との適合に持ち来さねばならぬというのか。多くの人はそうあるべき事のように考えているように見える。私は断じてこれを不可とする。
 変らねばならぬものは社会の生活様式である。それが変って個人の生活様式にまで追い付かねばならぬ。
 国家も産業も社会生活の一様式である。近代に至って、この二つの様式に対する根本的な批判を敢《あ》えてする二つの見方が現われ出た。それは個性の要求が必至的に創《つく》り出した見方であって、徒《いたず》らなる権力が如何ともすべからざる一個の権威である。一時は権力を以《もっ》て圧倒することも出来よう。然しながら結局は、現存の国家なり産業組織なりが、合理的な批判を以てそれを打壊し得るにあらずんば、決して根絶することの出来ない見方である。私のいう二つの見方とは、社会主義であり、無政府主義である。
 この二つの主義のかくまでの力強さは何処《どこ》にあるか。それは、縦令《たとい》不完全であろうとも、個性の全的要求が生み出した主義だからである。社会主義者は自ら人間の社会的本能が生み出した見方であると主張するけれども、その主義の根柢をなすものは生存競争なる自然現象である。生存競争は個性から始まって始めて階級争闘に移るのだ。だからその点に於て社会主義者の主張は裏切られている。無政府主義に至っては固《もと》より始めから個性生活の絶対自由をその標幟《ひょうし》としている。




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