有島武郎「惜みなく愛は奪う」(23) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(23)

 社会主義はダーウィンの進化論から生存競争の原理を抜いてその主張の出発点としたことは前に述べた通りだ。クロポトキンはこれに対立して無政府主義を宣言するに当り、進化論の一原理なる相互扶助の動向を取ってその論陣を堅めた。両者共に、個性から発して動植物両界の致命的要素たる本能であるとせられている。一方の主義者は生存競争の為めの相互扶助だと主張し、一方の主義者は相互扶助の為めの生存競争だと主張する。私はここで敢えて主義者の見地を裁断しようとも思わないし、又私の自然科学に対する空疎な知識はそれをすることも許しはしない。
 然し私はこういうことを申し出して見たい。ケーベル博士がそのカント論に於て「生物学に於て取り扱われる動物本能は、畢竟《ひっきょう》人間にある本能の投影に過ぎない。認識作用が事物に遵合《コンフォーム》するのではなく、却《かえ》って事物(現象としての)が認識作用に遵合するのである」といった言葉は、単に唯心論者の常套語《じょうとうご》とばかりはいい退けてしまうことが出来ない。そこには動かすことの出来ない実際的睿智《えいち》が動いているのを私は感ずることが出来る。惟《おも》うに動物には、ダーウィンが発見した以外に幾多の本能が潜んでいるに相違ない。そしてそれがより以上の本能の力によって統合されているに相違ない。然しながら十九世紀の生物学者は、眼覚めかけて来た個性の要求(それは十八世紀の仏国の哲学者等に負うところが多いだろう)と社会の要求との間に或る広い距離を感じたのではなかったろうか。そして動物中に行われる現状打破の本能を際立《きわだ》って著しいものと認めたのではなかったろうか。然しその時学者達の頭の中には、個性は社会を組織する或る小さな因子としてのみ映っていたろう。しかのみならず科学的研究法の必然的な条件として、凡《すべ》てのものを二元的に見ることに慣らされていた。彼等はひとりでに個性と社会とを対立させた。従ってその結論も個性と社会との中、個性に重きを置いた場合には生存競争として現われ、社会に重きを置いた場合には相互扶助として現われたのだ。然し前者には社会が、後者には個性が、少しも度外視されていはしない。
 私達はこの時代的着色から躍進しなければならぬと私は思う。私は個性の尊厳を体験した。個性の要求の前には、社会の要求は無条件的に変らねばならぬことを知った。そして人間の個性に宿った本能即ち愛が如何なる要求を持つかを肯《がえ》んじた。そして更に又動物に現われる本能が無自覚的で、人間に現われる本能が自覚的であるのを区別した。自覚とは普遍智の要求を意味する。個性はもはや個性の社会に対する本能的要求を以て満足せず、個性自身、その全体の満足の中にのみ満足する。そこには競争すべき外界もなく、扶助すべき外界もない。人間は愛の抱擁にまで急ぐ。彼の愛の動くところ、凡ての外界は即ち彼だ。我の正しい生長と完成、この外に結局何があろうぞ。
  (以下十余行内務省の注意により抹殺《まっさつ》)
 私はこの本質から出発した社会生活改造の法式を説くことはしまいと思う。それはおのずからその人がある。私は単にここに一個の示唆を提供することによって満足する。私が持って生れた役目はそれを成就すれば足りるのだから。
 宗教もまた社会生活の一つの様式である。信仰は固《もと》より人々のことであるが、宗教といえばそれは既に社会にまで拡大された意味をもっている。そして何故に現在の宗教がその権威を失墜してしまったか。昔は一国の帝王が法王の寛恕《かんじょ》を請うために、乞食の如くその膝下《ひざもと》に伏拝した。又或る仏僧は皇帝の愚昧なる一言を聞くと、一拶《いっさつ》を残したまま飄然《ひょうぜん》として竹林に去ってしまった。昔にあっては何が宗教にかくの如き権威を附与し、今にあっては、何が私達の見るが如き退縮を招致したか。それは宗教が全く智的生活の羈絆《きはん》に自己を委《ゆだ》ね終ったからである。宗教はその生命を自分自身の中に見出《みいだ》すことを忘れて、社会的生活に全然遵合《コンフォーム》することによって、その存在を僥倖《ぎょうこう》しようとしたからだ。国家には治者と被治者とがあって、その間には動向の根柢的な衝突が行われる。宗教は無反省にもこの概念を取って、自分に適用した。神(つまり私はここで信仰の対象を指しているのだ。その名は何んでもいい)は宗教界にあって、国家に於ける主権者の位置にある。彼は人からあらゆる捧げものを要求する。人の生活は畢竟神の前にあっては無に等しい。神は凡ての権能の主体である。人は神の前にあって無であることを栄誉としなければならない。神に対し自己を犠牲にすることが彼の有する唯一の権利(若しそういう言葉が使えるなら)である。神の欲するところと人の欲するところとの間には、渡らるべき橋も綱もない。神と人とは全く本質を異にした二元として対立している。
 国家の組織が無反省にそのまま人民によって肯定せられていた時代には、この神人関係の概念もまた無反省に受取られることが出来たろう。然し個性の欲求が、愛の動向が、体達せられた今にあっては、この神人関係の矛盾は直ちに苦痛となって、個性によって感ぜられる。生活根源の動向は凡て同じ方向に向上しなければならぬ。私達は既に石から人間に至るまでの過程に於て、同じ方向に向上して来た本能の流れを見た。私達の内部生命は獲得によってのみ向上飛躍するのを見た。然るに現存の宗教は、神にのみその動向を認めて、人間にはそれを拒もうとしているではないか。
 或る人は私に告げるであろう。時勢に取り残されたるものよ。お前は神人合一の教理が夙《とう》の昔から叫ばれているのを知らないのか。神は人間と対立しているようなものではない。実に人間の衷《うち》にあって働くべきものだ。人間は又神の衷にあって働くべきものだ。神と自己とを対立させるが故に、人間は堕落するのだ。神の要求はそのまま人間の要求でなければならぬのだ。お前はそれをすら知らないで、一体何んの囈言《たわごと》をいおうとするのだと。然らば私はその人に向って問いたい。それなら何故今でも教壇の上からやむことなく犠牲の義務と献身の徳とが高調して説かれなければならないのだろう。神は嘗《かつ》て犠牲を払い献身を敢えてしたか(基督《キリスト》教徒はここで基督の生涯を引照するだろう。然し基督の生涯が犠牲でも献身でもないことは前に説いた)。然るに現在教壇からは、神にないものが人間にあらねばならぬとして要求されているのはどうしたことなのか。私はそれが人間性の根本に対する理解の不十分から来ているのではないかと疑う。そしてその疑いに全く理由がないではあるまいと思う。神人合一という概念だけは自然の必要から建て上げられた。それは政治に於て、専制政体が立憲政体に変更されたのとよく似ている。その形に於ては或る改造が成就されたように見える。立法の主体は稍※[#二の字点、1-2-22]《やや》移動したかも知れない。しかも治者と被治者とが全く相反した要求によって律せられている点に於ては寸毫《すんごう》も是正されてはいないのだ。神と人とは合一する。その言葉は如何《いか》に美しいだろう。然しその合一の実が挙がっていなかったら、その美しい空論が畢竟何の益になるか。
 私はかくの如き妥協的な改良説を一番恐れなければならない。それはその外貌《がいぼう》の美しさが私をあざむきやすいからである。
 宗教が国家の機械、即ち美しい言葉でいえば政務の要具たることから自分を救い出さねばならぬことは勿論であるが、現存の国家がその拠《よ》りどころとする智的生活、その智的生活から当然抽出される二元的見断から自分自身を救い出して、愛の世界にまで高まらなかったら、それは永久にその権威を回復することが出来ないだろう。
 私は神を知らない。神を知らないものが神と人との関係などに対して意見を申し出るのは出過ぎたことだといわれるかも知れない。然し宗教が社会生活の一様式として考え得られる時、その様式に対して私が思うところを述べるのは許されることだと思う。私の態度を憎むものは、私の意見を無視すればそれで足りる。けれども私は私自身を無視しはしない。
 教育というものに就《つ》いても、私はここでいうべき多くを持っている。然し聡明な読者は、私が社会生活の部門について述べて来たところから、私が教育に対して何をいおうとするかを十分に見抜いていられると思う。私は徒《いたず》らな重複を避けなければならない。然しここにも数言を費すことを許されたい。
 子供は子供自身の為めに教育されなければならない。この一事が見過されていたなら教育の本義はその瞬間に滅びるのみならず、それは却って有害になる。社会の為めに子供を教育する――それは驚くべく悲しむべき錯誤である。
 仕事に勤勉なれと教える。何故正しき仕事を選べと教えないのか。正しい仕事を選び得たものは懶惰《らんだ》であることが出来ないのだ。私は嘗て或る卒業式に列した。そこの校長は自分が一度も少年の時期を潜《くぐ》りぬけた経験を持たぬような鹿爪《しかつめ》らしい顔をして、君主の恩、父母の恩、先生の恩、境遇の恩、この四恩の尊さ難有《ありがた》さを繰返し繰返し説いて聞かせた。かのいたいけな少年少女たちは、この四つの重荷の下にうめくように見やられた。彼等は十分に義務を教えられた。然し彼等の最上の宝なる個性の権威は全く顧みられなかった。美しく磨《みが》き上げられた個性は、恩を知ることが出来ないとでもいうのか。余りなる無理解。不必要な老婆親切。私は父である。そして父である体験から明かにいおう。私は子供に感謝すべきものをこそ持っておれ、子供から感謝さるべき何物をも持ってはいない。私が子供に対して払った犠牲らしく見えるものは、子供の愛によって酬《むく》いられてなお余りがある。それが何故分らないのだろう。正しき仕事を選べと教えるように、私は、私の子供に子供自身の価値が何であるかを教えてもらいたい。彼はその余の凡てを彼自身で処理して行くだろう。私は今仮りに少年少女を私の意見の対象に用いた。然し私はこれを中等教育にも高等教育にも延長して考えることが出来ると思う。学問の内容よりも学問そのものを重んじさせるということ、知識よりも暗示を与えるということ、人間を私の所謂《いわゆる》専門家に仕立て上げないことなど。




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