有島武郎「惜みなく愛は奪う」(25) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(25)

 この男女関係の狂いから当然帰納されることは、現在の文化が男女両性の協力によって成り立つものではないという事だ。現時の文化は大は政治の大から小は手桶《ておけ》の小に至るまで悉《ことごと》く男子の天才によって作り上げられたものだといっていい。男性はその凡ての機関の恰好な使用者であるけれども、女性がそれに与《あず》かるためには、或る程度まで男性化するにあらざれば与かることが出来ない。男性は巧みにも女性を家族生活の片隅《かたすみ》に祭りこんでしまった。しかも家族生活にあっても、その大権は確実に男性に握られている。家族に供する日常の食膳と、衣服とは女性が作り出すことが出来よう。然しながら饗応《きょうおう》の塩梅《あんばい》と、晴れの場の衣裳とは、遂に男性の手によってのみ巧みに作られ得る。それは女性に能力がないというよりは、それらのものが凡《すべ》てその根柢《こんてい》に於て男性の嗜好《しこう》を満足するように作られているが故に、それを産出するのもまたおのずから男性の手によってなされるのを適当とするだけのことだ。
 地球の表面には殆んど同数の男女が生きている。そしてその文化が男性の欲求にのみ適合して成り立つとしたら、それが如何に不完全な内容を持ったものであるかが直ちに看取されるだろう。
 女性が今の文化生活に与ろうとする要求を私は無下《むげ》に斥《しりぞ》けようとする者ではない。それは然しその成就が完全な女性の独立とはなり得ないということを私は申し出したい。若し女性が今の文化の制度を肯定して、全然それに順応することが出来たとしても、それは女性が男性の嗜好に降伏して自分達自らを男性化し得たという結果になるに過ぎない。それは女性の独立ではなく、女性の降伏だ。
 唯《ただ》外面的にでも女性が自ら動くことの出来る余地を造っておいて、その上で女性の真要求を尋ね出す手段としてならば、私は女権運動を承認する。
 それにも増して私が女性に望むところは、女性が力を合せて女性の中から女性的天才を生み出さんことだ。男性から真に解放された女性の眼を以て、現在の文化を見直してくれる女性の出現を祈らんことだ。女性の要求から創り出された文化が、これまでの文化と同一内容を持つだろうか、持たぬだろうか、それは男性たる私が如何に努力しても、臆測《おくそく》することが出来ない。そして恐らくは誰も出来ないだろう。その異同を見極めるだけにでも女性の中から天才の出現するのは最も望まるべきことだ。同じであったならそれでよし、若し異っていたら、男性の創《つく》り上げた文化と、女性のそれとの正しき抱擁によって、それによってのみ、私達凡ての翹望《ぎょうぼう》する文化は成り立つであろう。
 更に私は家族生活について申し出しておく。家族とは愛によって結び付いた神聖な生活の単位である。これ以外の意味をそれに附け加えることは、その内容を混乱することである。法定の手続と結婚の儀式とによって家族は本当の意味に於て成り立つと考えられているが、愛する男女に取っては、本質的にいうと、それは少しも必要な条件ではない。又離婚即ち家族の分散が法の認許によって成り立つということも必要な条件ではない。凡てかかる条件は、社会がその平安を保持するために案出して、これを凡ての男女に強制しているところのものだ。国家が今あるがままの状態で、民衆の生活を整理して行くためには、家族が小国家の状態で強国に維持されることを極めて便利とする。又財産の私有を制度となさんためには、家族制度の存立と財産継承の習慣とが欠くべからざる必要事である。これらの外面的な情実から、家族は国家の柱石、資本主義の根拠地となっている。その為めには、縦令《たとい》愛の失われた男女の間にも、家族たる形体を固守せしめる必要がある。それ故に家族の分散は社会が最も忌み嫌《きら》うところのものである。
 おしなべての男女もまた、社会のこの不言不語の強圧に対して柔順である。彼等の多数は愛のない所にその形骸《けいがい》だけを続ける。男性はこの習慣に依頼して自己の強権を保護され、女性はまたこの制度の庇護《ひご》によってその生存を保障される。そしてかくの如き空虚な集団生活の必然的な結果として、愛なき所に多数の子女が生産される。そして彼等は親の保護を必要とする現在の社会にあって(私は親の保護を必要としない社会を予想しているが故にかくいうのだ)親の愛なくして育たねばならぬ。そして又一方には、縦令愛する男女でも、家族を形造るべき財産がないために、結婚の形式を取らずに結婚すれば、その子は私生児として生涯隣保の擯斥《ひんせき》を受けねばならぬ。
 社会からいったならば、かかる欠陥は縦令必然的に起って来るとしても、なお家族制度を固執することに多分の便利が認められよう。然し個性の要求及びその完成から考える時、それはいかに不自然な結果を生ずるであろうよ。第一この制度の強制的存在のために、家族生活の神聖は、似而《にて》非《ひ》なる家族の交雑によって著しく汚される。愛なき男女の結合を強制することは、そのまま生活の堕落である。愛によらざる産子《さんし》は、産者にとって罪悪であり、子女にとって救われざる不幸である。愛によって生れ出た子女が、侮辱を蒙《こうむ》らねばならぬのは、この上なき曲事《きょくじ》である。私達はこれを救わなければならない。それが第一の喫緊事だ。それらのことについて私達はいかなるものの犠牲となっていることも出来ない。若しこの欲求の遂行によって外界に不便を来すなら、その外界がこの欲求に適応するように改造されなければならぬ筈《はず》だ。
 愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。
 更に又、私は恋愛そのものについて一言を附け加える。恋愛の前に個性の自己に対する深き要求があることを思え。正しくいうと個性の全的要求によってのみ、人は愛人を見出すことに誤謬《ごびゅう》なきことが出来る。そして個性の全的要求は容易に愛を異性に対して動かさせないだろう。その代り一度見出した愛人に対しては、愛はその根柢から揺《ゆら》ぎ動くだろう。かくてこそその愛は強い。そして尊い。愛に対する本能の覚醒《かくせい》なしには、縦令男女交際にいかなる制限を加うるとも、いかなる修正を施すとも、その努力は徒労に終るばかりであろう。




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