有島武郎「惜みなく愛は奪う」(04) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(04)

        四

 長い廻り道。
 その長い廻り道を短くするには、自分の生活に対する不満を本当に感ずる外にはない。生老病死の諸苦、性格の欠陥、あらゆる失敗、それを十分に噛《か》みしめて見ればそれでいいのだ。それは然《しか》し如何《いか》に言説するに易く実現するに難き事柄であろうぞ。私は幾度かかかる悟性の幻覚に迷わされはしなかったか。そしてかかる悟性と見ゆるものが、実際は既定の概念を尺度として測定されたものではなかったか。私は稀《まれ》にはポーロのようには藻掻《もが》いた。然し私のようには藻掻かなかった。親鸞《しんらん》のようには悟った。然し私のようには悟らなかった。それが一体何になろう。これほど体裁のいい外貌《がいぼう》と、内容の空虚な実質とを併合した心の状態が外にあろうか。この近道らしい迷路を避けなければならないと知ったのは、長い彷徨《ほうこう》を続けた後のことだった。それを知った後でも、私はややもすればこの忌《いま》わしい袋小路につきあたって、すごすごと引き返さねばならなかった。
 私は自分の個性がどんなものであるかを知りたいために、他人の個性に触れて見ようとした。歴史の中にそれを見出そうと勉めたり、芸術の中にそれを見出そうと試みたり、隣人の中にそれを見出そうと求めたりした。私は多少の知識は得たに違いなかった。私の個性の輪廓は、おぼろげながら私の眼に映るように思えぬではなかった。然しそれは結局私ではなかった。
 物を見る事、物をそれ自身の生命に於てあやまたず捕捉する事、それは私が考えていたように容易なことではない。それを成就し得た人こそは世に類《たぐい》なく幸福な人だ。私は見ようと欲しないではなかった。然し見るということの本当の意味を弁《わきま》えていたといえようか。掴《つか》み得たと思うものが暫《しばら》くするといつの間にか影法師に過ぎぬのを発見するのは苦《にが》い味だ。私は自分の心を沙漠《さばく》の砂の中に眼だけを埋めて、猟人から己れの姿を隠し終《おお》せたと信ずる駝鳥《だちょう》のようにも思う。駝鳥が一つの機能の働きだけを隠すことによって、全体を隠し得たと思いこむのと反対に、私は一つの機能だけを働かすことによって、私の全体を働かしていると信ずることが屡※[#二の字点、1-2-22]ある。こうして眺《なが》められた私の個性は、整った矛盾のない姿を私に描いて見せてくれるようだけれども、見ている中にそこには何等の生命もないことが明かになって来る。それは感激なくして書かれた詩のようだ。又着る人もなく裁《た》たれた錦繍《きんしゅう》のようだ。美しくとも、価高くあがなわれても、有りながら有る甲斐《かい》のない塵芥《じんかい》に過ぎない。
 私が私自身に帰ろうとして、外界を機縁にして私の当体《とうたい》を築き上げようとした試みは、空《むな》しい失敗に終らねばならなかった。
 聡明にして上品な人は屡※[#二の字点、1-2-22]仮象に満足する。満足するというよりは、人の現象と称《とな》えるものも、人の実在と称えるものも、畢竟《ひっきょう》は意識の――それ自身が仮象であるところの――仮初《かりそ》めな遊戯に過ぎないと傍観する。そこに何等かの執着をつなぎ、葛藤を加えるのは、要するに下根粗笨《そほん》な外面的見断に支配されての迷妄に過ぎない。それらの境を静かに超越して、嬰児の戯れを見る老翁のように凡《すべ》ての努力と蹉跌《さてつ》との上に、淋しい微笑を送ろうとする。そこには冷やかな、然し皮相でない上品さが漂っている。或は又凡てを容《い》れ凡てを抱いて、飽くまで外界の跳梁《ちょうりょう》に身を任かす。昼には歓楽、夜には遊興、身を凡俗非議の外に置いて、死にまでその恣《ほしいま》まな姿を変えない人もある。そこには皮肉な、然し熱烈な聡明が窺《うかが》われないではない。私はどうしてそれらの人を弾劾《だんがい》することが出来よう。果てしのない迷執にさまよわねばならぬ人の宿命であって見れば、各※[#二の字点、1-2-22]の瞬間をただ楽しんで生きる外に残される何事があろうぞとその人達はいう。その心持に対して私は白眼を向けることが出来るか。私には出来ない。人は或はかくの如き人々を酔生夢死の徒と呼んで唾棄《だき》するかも知れない。然し私にはその人々の何処《どこ》かに私を牽《ひ》き付ける或るものが感ぜられる。私には生来持ち合わしていない或る上品さ、或る聡明さが窺われるからだ。
 何という多趣多様な生活の相だろう。それはそのままで尊いではないか。そのままで完全な自然な姿を見せているではないか。若し自然にあの絢爛《けんらん》な多種多様があり、独《ひと》り人間界にそれがなかったならば、宇宙の美と真とはその時に崩れるといってもいいだろう。主義者といわれる人の心を私はこの点に於てさびしく物足らなく思う。彼は自分が授かっただけの天分を提《ひっさ》げて人間全体をただ一つの色に塗りつぶそうとする人ではないか。その意気の尊さはいうまでもない。然しその尊さの蔭には尊さそのものをも冰《こお》らせるような淋しさが潜んでいる。
 ただ私は私自身を私に恰好《かっこう》なように守って行きたい。それだけは私に許される事だと思うのだ。そしてその立場からいうと私はかの聡明にして上品な人々と同情の人であることが出来ない。私にはまださもしい未練が残っていて、凡てを仮象の戯れだと見て心を安んじていることが出来ない。そこには上品とか聡明とかいうことから遙《はる》かに遠ざかった多くの vulgarity が残っているのを私自身よく承知している。私は全く凡下《ぼんげ》な執着に駆られて齷齪《あくせく》する衆生《しゅじょう》の一人に過ぎない。ただ私はまだその境界を捨て切ることが出来ない。そして捨て切ることの出来ないのを悪いことだとさえ思わない。漫然と私自身を他の境界に移したら、即ち私の個性を本当に知ろうとの要求を擲《なげう》ったならば、私は今あるよりもなお多くの不安に責められるに違いないのだ。だから私は依然として私自身であろうとする衝動から離れ去ることが出来ない。
 外界の機縁で私を創《つく》り上げる試みに失敗した私は、更に立ちなおって、私と外界とを等分に向い合って立たせようとした。
 私がある。そして私がある以上は私に対立して外界がある。外界は私の内部に明かにその影を投げている。従って私の心の働きは二つの極の間を往来しなければならない。そしてそれが何故悪いのだ。私はまだどんな言葉で、この二つの極の名称をいい現わしていいか知らない。然しこの二つの極は昔から色々な名によって呼ばれている。希臘《ギリシャ》神話ではディオニソスとアポロの名で、又欧洲の思潮ではヘブライズムとヘレニズムの名で、仏典では色相と空相の名で、或は唯物唯心、或は個人社会、或は主義趣味、……凡て世にありとあらゆる名詞に対を成さぬ名詞はないと謂《い》ってもいいだろう。私もまたこのアンティセシスの下にある。自分が思い切って一方を取れば、是非退けねばならない他の一方がある。ジェーナスの顔のようにこの二つの極は渾融《こんゆう》を許さず相反《そむ》いている。然し私としてはその二つの何《いず》れをも潔《いさぎよ》く捨てるに忍びない。私の生の欲求は思いの外に強く深く、何者をも失わないで、凡てを味い尽して墓場に行こうとする。縦令《たとい》私が純一無垢《むく》の生活を成就しようとも、この存在に属するものの中から何かを捨ててしまわねばならぬとなら、それは私には堪え得ぬまでに淋しいことだ。よし私は矛盾の中に住み通そうとも、人生の味いの凡てを味い尽さなければならぬ。相反して見ゆる二つの極の間に彷徨《さまよ》うために、内部に必然的に起る不安を得ようとも、それに忍んで両極を恐れることなく掴まねばならぬ。若《も》しそれらを掴むのが不可能のことならば、公平な観察者鑑賞者となって、両極の持味を髣髴《ほうふつ》して死のう。
 人間として持ち得る最大な特権はこの外にはない。この特権を捨てて、そのあとに残されるものは、捨てるにさえ値しない枯れさびれた残り滓《かす》のみではないか。




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