有島武郎「惜みなく愛は奪う」(05) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(05)

        五

 けれども私はそこにも満足を得ることが出来なかった。私は思いもよらぬ物足らぬ発見をせねばならなかった。両極の観察者になろうとした時、私の力はどんどん私から遁《のが》れ去ってしまったのだ。実験のみをしていて、経験をしない私を見出《みいだ》した時、私は何ともいえない空虚を感じ始めた。私が触れ得たと思う何《いず》れの極も、共に私の命の糧《かて》にはならないで、何処《いずこ》にまれ動き進もうとする力は姿を隠した。私はいつまでも一箇所に立っている。
 これは私として極端に堪えがたい事だ。かのハムレットが感じたと思われる空虚や頼りなさはまた私にも存分にしみ通って、私は始めて主義の人の心持を察することが出来た。あの人々は生命の空虚から救い出されたい為めに、他人の自由にまで踏み込んでも、力の限りを一つの極に向って用いつつあるのだ。それは或る場合には他人にとって迷惑なことであろうとも、その人々に取っては致命的に必要なことなのだ。主義の為めには生命を捨ててもその生命の緊張を保とうとするその心持はよく解る。
 然しながら私には生命を賭《と》しても主張すべき主義がない。主義というべきものはあるとしても、それが為めに私自身を見失うまでにその為めに没頭することが出来ない。
 やはり私はその長い廻り道の後に私に帰って来た。然し何というみじめな情ない私の姿だろう。私は凡てを捨ててこの私に頼らねばならぬだろうか。私の過去には何十年の遠きにわたる歴史がある。又私の身辺には有らゆる社会の活動と優《すぐ》れた人間とがある。大きな力強い自然が私の周囲を十重二十重《とえはたえ》に取り巻いている。これらのものの絶大な重圧は、この憐《あわ》れな私をおびえさすのに十分過ぎる。私が今まで自分自身に帰り得ないで、有らん限りの躊躇《ちゅうちょ》をしていたのも、思えばこの外界の威力の前に私自身の無為を感じていたからなのだ。そして何等かの手段を運《めぐ》らしてこの絶大の威力と調和し若しくは妥協しようとさえ試みていたのだった。しかもそれは私の場合に於ては凡て失敗に終った。そういう試みは一時的に多少私の不安を撫《な》でさすってくれたとしても、更に深い不安に導く媒《なかだち》になるに過ぎなかった。私はかかる試みをする始めから、何かどうしてもその境遇では満足し得ない予感を持ち、そしてそれがいつでも事実になって現われた。私はどうしてもそれらのものの前に at home に自分自身を感ずることが出来なかった。
 それは私が大胆でかつ誠実であったからではない。偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあったと云えるかも知れない。けれど少くとも大胆ではなかった。私は弱かったのだ。
 誰でも弱い人がいかなる心の状態にあるかを知っている。何物にも信頼する事の出来ないのが弱い人の特長だ。しかも何物にか信頼しないではいられないのが他の特長だ。兎《うさぎ》は弱い動物だ。その耳はやむ時なき猜疑《さいぎ》に震えている。彼は頑丈《がんじょう》な石窟《せっくつ》に身を託する事も、幽邃《ゆうすい》な深林にその住居を構えることも出来ない。彼は小さな藪《やぶ》の中に彼らしい穴を掘る。そして雷が鳴っても、雨が来ても、風が吹いても、犬に追われても、猟夫に迫られても、逃げ廻った後にはそのみじめな、壊《こわ》れ易い土の穴に最後の隠れ家を求めるのだ。私の心もまた兎のようだ。大きな威力は無尽蔵に周囲にある。然し私の怯《おび》えた心はその何れにも無条件的な信頼を持つことが出来ないで、危懼《きく》と躊躇とに満ちた彷徨の果てには、我ながら憐れと思う自分自分に帰って行くのだ。
 然し私はこれを弱いものの強味と呼ぶ。何故といえば私の生命の一路はこの極度の弱味から徐《おもむ》ろに育って行ったからだ。
 ここまで来て私は自ら任じて強しとする人々と袖《そで》を別たねばならぬ。その人々はもう私に呆《あき》れねばならぬ時が来た。私はしょうことなしに弱さに純一になりつつ、益※[#二の字点、1-2-22]強い人々との交渉から身を退けて行くからだ。ニイチェは弱い人だった。彼もまた弱い人の通性として頑固に自分に執着した。そこから彼の超人の哲学は生れ出たが、そしてそれは強い人に恰好な背景を与える結果にはなったが、それを解して彼が強かったからだと思うのは大きな錯誤といわねばならぬ。ルッソーでもショーペンハウエルでも等しくそうではなかったか。強い人は幸にして偉人となり、義人となり、君子となり、節婦となり、忠臣となる。弱い人はまた幸にして一個の尋常な人間となる。それは人々の好き好きだ。私は弱いが故に後者を選ぶ外《ほか》に途《みち》が残されていなかったのだ。
 運命は畢竟不公平であることがない。彼等には彼等のものを与え、私には私のものを与えてくれる。しかも両者は一度は相失う程に分れ別れても、何時《いつ》かは何処かで十字路頭にふと出遇《であ》うのではないだろうか。それは然し私が顧慮するには及ばないことだ。私は私の道を驀地《まっしぐら》に走って行く外はない。で、私は更にこの筆を続けて行く。




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