有島武郎「惜みなく愛は奪う」(09) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(09)

        一〇

 然《しか》しながら個性の完全な飽満と緊張とは如何《いか》に得がたきものであるよ。燃焼の生活とか白熱の生命とかいう言葉は紙と筆とをもってこそ表わし得ようけれども、私の実際の生活の上には容易に来てくれることがない。然し私にも全くないことではなかった。私はその境界《きょうがい》がいかに尊く難有《ありがた》きものであるかを幽《かす》かながらも窺《うかが》うことが出来た。そしてその醍醐味《だいごみ》の前後にはその境に到り得ない生活の連続がある。その関係を私はこれから朧《おぼ》ろげにでも書き留めておこう。
 外界との接触から自由であることの出来ない私の個性は、縦令《たとい》自主的な生活を導きつつあっても、常に外界に対し何等かの角度を保ってその存在を持続しなければならない。或る時は私は外界の刺戟《しげき》をそのままに受け入れて、反省もなく生活している。或る時は外界の刺戟に対して反射的に意識を動かして生活している。又或る時は外界の刺戟を待たずに、私の生命が或る已むなき内的の力に動かされて外界に働きかける。かかる変化はただ私の生命の緊張度の強弱によって結果される。これは智的活動、情的活動、意志的活動というように、生命を分解して生活の状態を現わしたものではない。人間の個性の働きを言い現わす場合にかかる分解法によるのは私の最も忌むところである。人間の生命的過程に智情意というような区別は実は存在していないのだ。生命が或る対象に対して変化なく働き続ける場合を意志と呼び、対象を変じ、若しくは力の量を変化して生命が働きかける場合を情といい、生命が二つ以上の対象について選択をなす場合を智と名づけたに過ぎないのだ。人の心的活動は三頭政治の支配を受けているのではない。もっと純一な統合的な力によって総轄されているのだ。だから少し綿密な観察者は、智と情との間に、情と意志との間に、又意志と智との間に、判然とはその何れにも従わせることの出来ない幾多の心的活動を発見するだろう。虹彩《こうさい》を検する時、赤と青と黄との間に無限数の間色を発見するのと同一だ。赤青黄は元来白によって統一さるべき仮象であるからである。かくて私達が太陽の光線そのものを見窮《みきわ》めようとする時、分解された諸色をいかに研究しても、それから光線そのものの特質の全体を知悉《ちしつ》することが出来ぬと同様に、智情意の現象を如何に科学的に探究しても、心的活動そのものを掴《つか》むことは思いもよらない。帰納法は記述にのみ役立つ。然し本体の表現には役立たない。この簡単な原理は屡※[#二の字点、1-2-22]閑却される。科学に、従って科学的研究に絶大の価値をおこうとする現代にあっては、帰納法の根本的欠陥は往々無反省に閑却される。
 さて私は岐路に迷い込もうとしたようだ。私は再び私の当面の問題に帰って行こう。
 外界の刺戟をそのまま受け入れる生活を仮りに習性的生活(habitual life)と呼ぶ。それは石の生活と同様の生活だ。石は外界の刺戟なしには永久に一所《ひとところ》にあって、永い間の中にただ滅して行く。石の方から外界に対して働きかける場合は絶無だ。私には下等動物といわれるものに通有な性質が残っているように、無機物の生活さえが膠着《こうちゃく》していると見える。それは人の生活が最も緩慢となるところには何時《いつ》でも現われる現象だ。私達の祖先が経験し尽した事柄が、更に繰り返されるに当っては、私達はもう自分の能力を意識的に働かす必要はなくなる。かかる物事に対する生活活動は単に習性という形でのみ私達に残される。
 チェスタートンが、「いかなる革命家でも家常茶飯事《さはんじ》については、少しも革命家らしくなく、尋常人と異らない尋常なことをしている」といったのはまことだ。革命家でもない私にはかかる生活の態度が私の活動の大きな部分を占めている。毎朝私は顔を洗う。そして顔を洗う器具に変化がなければ、何等の反省もなく同じ方法で顔を洗う。若し不注意の為《た》めにその方法を誤るようなことでもあれば、却ってそれを不愉快の種にする位だ。この生活に於ては全く過去の支配の下にある。私の個性の意識は少しもそこに働いていない。
 私はかかる生活を無益だというのではない。かかる生活を有するが為めに私の日常生活はどれ程煩雑《はんざつ》な葛藤から救われているか知れない。この緩慢な生活が一面に成り立つことによって、私達は他面に、必要な方面、緊張した生活の欲求を感じ、それを達成することが出来る。
 然しかかる生活は私の個性からいうと、個性の中に属させたらいいものかわるいものかが疑われる。何故ならば、私の個性は厳密に現在に執着しようとし、かかる生活は過去の集積が私の個性とは連絡なく私にあって働いているというに過ぎないから。その上かかる生活の内容は甚だ不安定な状態にある。外界の事情が聊《いささ》かでも変れば、もうそこにはこの生活は成り立たない。そして私がこれからいおうとする智的生活の圏内に這入《はい》ってしまう。私は安んじてこの生活に倚《よ》りかかっていることが出来ない。
 又本能として自己の表現を欲求する個性は、習性的生活にのみ依頼して生存するに堪《た》えない。単なる過去の繰り返しによって満足していることが出来ない。何故なら、そこには自己がなくしてただ習性があるばかりだから、外界と自己との間には無機的な因縁《いんねん》があるばかりだから。私は石から、せめては草木なり鳥獣になり進んで行きたいと希《ねが》う。この欲求の緊張は私を駆って更に異った生活の相を選ばしめる。





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