有島武郎「惜みなく愛は奪う」(10) (おしみなくあいはうばう)

有島武郎「惜みなく愛は奪う」(10)

        一一

 それを名づけて私は智的生活(intellectual life)とする。
 この種の生活に於て、私の個性は始めて独立の存在を明かにし、外界との対立を成就する。それは反射の生活である。外界が個性に対して働きかけた時、個性はこれに対して意識的の反応をする。即《すなわ》ち経験と反省とが、私の生活の上に表われて来る。これまで外界に征服されて甘んじていた個性はその独自性を発揮して、外界を相手取って挑戦する。習性的生活に於《おい》て私は無元の世界にいた。智的生活に於て私は始めて二元の生活に入る。ここには私がいる。かしこには外界がある。外界は私に攻め寄せて来る。私は経験という形式によって外界と衝突する。そしてこの経験の戦場から反省という結果が生れ出て来る。それは或る時には勝利で、或る時には敗北であるであろう。
 その何れにせよ、反省は経験の結果を似寄りの部門に選び分ける。かく類別せられた経験の堆積《たいせき》を人々は知識と名づける。知識を整理する為めに私は信憑《しんぴょう》すべき一定の法則を造る。かく知識の堆積の上に建て上げられた法則を人々は道徳と名づける。
 道徳は対人的なものだという見解は一応道理ではあるけれども、私はそうは思わない。孤島に上陸したばかりの孤独なロビンソン・クルーソーにも自己に対しての道徳はあったと思う。何等の意味に於てであれ、外界の刺戟《しげき》に対して自己をよりよくして行こうという動向は道徳とはいえないだろうか。クルーソーが彼の為めに難破船まで什器《じゅうき》食料を求めに行ったのは、彼自身に取っての道徳ではなかったろうか。然《しか》しクルーソーはやがてフライデーを殺人者から救い出した。クルーソーとフライデーとは最上の関係に於て生きることを互に要求した。クルーソーは自己に対する道徳とフライデーに対する道徳との間に分譲点を見出さねばならなかった。フライデーも同じ努力をクルーソーに対してなした。この二人の努力は幸に一致点を見出した。かくて二人は孤島にあって、美しい間柄で日を過したのみならず、遂に船に救われて英国の土を踏むことが出来た。フライデーが来てからは、その孤島には対人的道徳即ち社会道徳が出来たけれども、クルーソー一人の時には、そこに一の道徳も存在しなかったと云おうとするのは、思い誤りでありはしまいか。道徳とは自己と外界(それが自然であろうと人間であろうと)との知識に基《もとい》する正しい自己の立場の決定である。だから、道徳は一人の人の上にも、二人以上の人々の間にも当然成り立たねばならぬものだ。但《ただ》し両方の場合に於て道徳の内容は知識の変化と共に変化する。知識の内容は外界の変化と共に変化する。それ故道徳は外界の変化につれてまた変化せざるを得ぬ。
 世には道徳の変易性《へんえきせい》を物足らなく思う人が少くないようだ。自分を律して行くべき唯一の規準が絶えず変化せねばならぬという事は、直ちに人間生活の不安定そのものを予想させる。人間の持っている道徳の後には何か不変な或るものがあって、変化し易《やす》い末流の道徳も、謂《い》わばそこに仮りの根ざしを持つものに相違ない。不完全な人間は一気にその普遍不易の道徳の根元を把握《はあく》しがたい為めに、模索の結果として誤ってその一部を彼等の規準とするに過ぎぬ。一部分であるが故に、それは外界の事情によっては修正の必要を生ずるだろうけれども、それは直ちに徹底的に道徳そのものの変易性を証拠立てるものにはならない。そう或る人々は考えるかも知れない。
 それでも私は道徳の内容は絶えず変易するものだと言い張りたい。私に普遍不易に感ぜられるものは、私に内在する道徳性である。即ち知識の集成の中から必ず自己を外界に対して律すべき規準を造り出そうとする動向は、その内容(緊張度の増減は論じないで)に於て変化することなく自存するのを知っている。然し道徳性と道徳とが全く異った観念であるのは、誰でも容易に判《わか》る筈《はず》だ。私に取っては、道徳の内容の変化するのは少しも不思議ではない。又困ることでもない。ただ変えようと思っても変えることの出来ないのは、道徳を生み出そうとする動向だ。そしてその内容が変化すると仮定するのは私に取って淋《さび》しいことだ。然し幸に私はそれを不安に思う必要はない。私は自分の経験によってその不易を十分に知っているから。
 知識も道徳も変化する。然しそれが或る期間固定していて、私の生活の努力がその内容を充実し得ない間は、それはどこまでも、知識として又道徳として厳存する。然し私の生活がそれらを乗り越してしまうと、知識も道徳も習性の閾《しきい》の中に退き去って、知識若《も》しくは道徳としての価値が失われてしまう。私が無意識に、ただ外界の刺戟にのみ順応して行っている生活の中にも、或《あるい》は他の或る人が見て道徳的行為とするものがあるかも知れない。然しその場合私に取っては決して道徳的行為ではない。何故ならば、道徳的である為めには私は努力をしていなければならないからだ。
 智的生活は反省の生活であるばかりでなく努力の生活だ。人類はここに長い経験の結果を綜合《そうごう》して、相共に依拠すべき範律を作り、その範律に則《のっと》って自己を生活しなければならぬ。努力は実に人を石から篩《ふる》い分ける大事な試金石だ。動植物にあってはこの努力という生活活動は無意識的に、若しくは苦痛なる生活の条件として履行されるだろう。然し人類は努力を単なる苦痛とのみは見ない。人類に特に発達した意識的動向なる道徳性の要求を充《み》たすものとして感ぜられる。その動向を満足する為めに人類は道徳的努力を伴う苦痛を侵すことを意としない。この現われは人類の歴史を荘厳なものにする。
 誰か智的生活の所産なる知識と道徳とを讃美《さんび》しないものがあろう。それは真理に対する人類の倦《う》むことなき精進の一路を示唆する現象だ。凡《すべ》ての懐疑と凡ての破壊との間にあって、この大きな力は嘗《かつ》て磨滅したことがない。かのフェニックスが火に焼かれても、再び若々しい存在に甦《よみがえ》って、絶えず両翼を大空に向って張るように、この精進努力の生活は人類がなお地上の王なる左券《さけん》として、長くこの世に栄えるだろう。
 然し私はこの生活に無上の安立《あんりゅう》を得て、更に心の空《むな》しさを感ずることがないか。私は否と答えなければならない。私は長い廻り道の末に、尋ねあぐねた故郷を私の個性に見出した。この個性は外界によって十重二十重《とえはたえ》に囲まれているにもかかわらず、個性自身に於て満ち足らねばならぬ。その要求が成就されるまでは絶対に飽きることがない。智的生活はそれを私に満たしてくれたか。満たしてはくれなかった。何故ならば智的生活は何といっても二元の生活であるからだ。そこにはいつでも個性と外界との対立が必要とせられる。私は自然若しくは人に対して或る身構えをせねばならぬ。経験する私と経験を強《し》いる外界とがあって知識は生れ出る。努力せんとする私とその対象たる外界があって道徳は発生する。私が知識そのものではなく道徳そのものではない。それらは私と外界とを合理的に繋《つな》ぐ橋梁《きょうりょう》に過ぎない。私はこの橋梁即ち手段を実在そのものと混同することが出来ないのだ。私はまた平安を欲すると共に進歩を欲する。潤色(elaboration)を欲すると共に創造を欲する。平安は既存の事体の調節的持続であり、進歩は既存の事体の建設的破棄である。潤色は在《あ》るものをよりよくすることであり、創造は在らざりしものをあらしめることである。私はその一方にのみ安住しているに堪えない。私は絶えず個性の再造から再造に飛躍しようとする。然るに智的生活は私のこの飛躍的な内部要求を充足しているか。
 智的生活の出発点は経験である。経験とは要するに私の生活の残滓《ざんし》である。それは反省――意識のふりかえり――によってのみ認識せられる。一つの事象が知識になるためにはその事象が一たび生活によって濾過《ろか》されたということを必要な条件とする。ここに一つの知識があるとする。私がそれを或る事象の認識に役立つものとして承認するためには、縦令《たとい》その知識が他人の経験の結果によって出来上ったものであれ、私の経験もまたそれを裏書したものでなければならぬ。私の経験が若しその知識の基本となった経験と全然没交渉であったなら、私は到底それを自分の用い得る知識として承認することは出来ない筈だ。だから私の有する知識とは、要するに私の過去を整理し、未来に起り来《きた》るべき事件を取り扱う上の参考となるべき用具である。私と道徳とに於ける関係もまた全く同様な考え方によって定めることが出来る。即ち知識も道徳も既存の経験に基いて組み立てられたもので、それがそのまま役立つためには、私の生活が同一軌道を繰り返し繰り返し往来するのを一番便利とする。そしてそこには進歩とか創造とかいう動向の活躍がおのずから忌み避けられなければならない。
 私の生活が平安であること、そしてその内容が潤色されることを私は喜ばないとはいわない。私の内部にはいうまでもなくかかる要求が大きな力を以て働いている。私はその要求の達成を智的生活に向って感謝せねばならぬ。けれども私は永久にこの保守的な動向にばかり膠着《こうちゃく》して満足するだろうか。
 一個人よりも活動の遅鈍になり勝ちな社会的生活にあっては、この保守的な智的生活の要求は自然に一個人のそれよりも強い。平安無事ということは、社会生活の基調となりたがる。だから今の程度の人類生活の様式下にあっては、個人的の飛躍的動向を無視圧迫しても、智的生活の確立を希望する。現代の政治も、教育も、学術も、産業も、大体に於てはこの智的生活の強調と実践とにその目標をおいている。だから若し私がこの種の生活にのみ安住して、社会が規定した知識と道徳とに依拠していたならば、恐らく社会から最上の報酬を与えられるだろう。そして私の外面的な生存権は最も確実に保障されるだろう。そして社会の内容は益※[#二の字点、1-2-22]《ますます》平安となり、潤色され、整然たる形式の下に統合されるだろう。
 然し――社会にもその動向は朧《おぼ》ろげに看取される如く――私には智的生活よりも更に緊張した生活動向の厳存するのをどうしよう。私はそれを社会生活の為めに犠牲とすべきであるか。社会の最大の要求なる平安の為めに、進歩と創造の衝動を抑制すべきであるか。私の不満は謂《いわ》れのない不満であらねばならぬだろうか。
 社会的生活は往々にして一個人のそれより遅鈍であるとはいえ、私の持っているものを社会が全然欠いているとは思われない。何故ならば、私自身が社会を組立てている一分子であるのは間違いのないことだから。私の欲するところは社会の欲するところであるに相違ない。そして私は平安と共に進歩を欲する。潤色と共に創造を欲する。その衝動を社会は今継子《ままこ》扱いにはしているけれども――そして社会なるものは性質上多分永久にそうであろうけれども――その何処かの一隅には必ず潜勢力としてそれが伏在していなければならぬ。社会は社会自身の意志に反して絶えず進歩し創造しつつあるから。
 私が私自身になり切る一元の生活、それを私は久しく憧《あこが》れていた。私は今その神殿に徐《おもむ》ろに進みよったように思う。





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