クリスマス・カロル(ディケンズ)(01) (くりすますかろる)

クリスマス・カロル(ディケンズ)(01)

クリスマス・カロル
A CHRISTMAS CAROL
ディッケンス Dickens
森田草平訳



   第一章 マアレイの亡霊

 先ず第一に、マアレイは死んだ。それについては少しも疑いがない。彼の埋葬の登録簿には、僧侶も、書記も、葬儀屋も、また喪主も署名した。スクルージがそれに署名した。そして、スクルージの名は、取引所においては、彼の署名しようとするいかなる物に対しても十分有効であった。
 老マアレイは戸の鋲のように死に果てていた。
 注意せよ。私は、私自身の知識からして、戸の鋲に関して特に死に果てたような要素を知っていると云うつもりではない。私一個としては、むしろ柩の鋲を取引における最も死に果てた鉄物《かなもの》と見做したいのであった。けれども、我々の祖先の智慧は直喩にある。そして、私のような汚れた手でそれを掻き紊すべきではない。そんなことをしたら、この国は滅びて仕舞う。だから諸君も、私が語気を強めて、マアレイは戸の鋲の様に死に果てていたと繰り返すのを許して下さいましょう。
 スクルージは彼が死んだことを知っていたか。もちろん知っていた。どうしてそれを知らずにいることが出来よう。スクルージと彼とは何年とも分らない長い歳月の間組合人であった。スクルージは彼が唯一の遺言執行人で、唯一の財産管理人で、唯一の財産譲受人で、唯一の残余受遺者で、唯一の友達で、また唯一の会葬者であった。そして、そのスクルージですら、葬儀の当日卓越した商売人であることを失うほど、それほどこの悲しい事件に際して気落ちしてはいなかった。そして、万に一つの間違いもない取引でその日を荘厳にした。
 マアレイの葬儀のことを云ったので、私は出発点に立ち戻る気になった。マアレイが死んでいたことには、毛頭疑いがない。この事は明瞭に了解して置いて貰わなければならない。そうでないと、これから述べようとしている物語から何の不思議なことも出て来る訳に行かない。あの芝居の始まる前に、ハムレットの阿父さんは死んだのだということを充分に呑み込んでいなければ、阿父さんが夜毎に、東風に乗じて、自分の城壁の上をふらふらさまよい歩いたのは、誰か他の中年の紳士が文字通りにその弱い子息の心を脅かしてやるために、日が暮れてから微風の吹く所へ――まあ例えばセント・パウル寺院の墓場へでも――やみくもに出掛けるよりも、別段変ったことは一つもない。
 スクルージは老マアレイの名前を決して塗り消さなかった。その後幾年もその名は倉庫の戸の上にそのままになっていた。すなわちスクルージ・エンド・マアレイと云うように。この商会はスクルージ・エンド・マアレイで知られて居た。新たにこの商会へ這入って来た人はスクルージのことをスクルージと呼んだり、時にはマアレイと呼んだりした。が、彼は両方の名に返事をした。彼にはどちらでも同じ事であったのだ。
 ああ、しかし彼は強欲非道の男であった。このスクルージは! 絞り取る、捩じ取る、掴む、引っ掻く、かじりつく、貪欲な我利々々爺であった! どんな鋼でもそれからしてとんと豊富な火を打ち出したことのない火燧石のように硬く、鋭くて、秘密を好む、人づき合いの嫌いな、牡蠣のように孤独な男であった。彼の心の中の冷気は彼の老いたる顔つきを凍らせ、その尖った鼻を痺れさせ、その頬を皺くちゃにして、歩きつきをぎごちなくした。また目を血走らせ、薄い唇をどす蒼くした。その上彼の耳触りの悪い嗄《しわが》れ声にも冷酷にあらわれていた。凍った白霜は頭の上にも、眉毛にも、また針金のような顎にも降りつもっていた。彼は始終自分の低い温度を身に附けて持ち廻っていた。土用中にも彼の事務所を冷くした、聖降誕祭にも一度といえどもそれを打ち解けさせなかった。
 外部の暑さも寒さもスクルージにはほとんど何の影響も与えなかった。いかな暖気も彼をあたためることは出来ず、いかな寒空も彼を冷えさせることは出来なかった。どんなに吹く風も彼よりは厳しいものはなく、降る雪も彼ほどその目的に対して一心不乱なものはなく、どんなに土砂降りの雨も彼ほど懇願を受け容れないものはなかった。険悪な天候もどの点で彼を凌駕すべきかを知らなかった。最も強い雨や、雪や、霰や、霙でも、ただ一つの点で彼に立ち優っていることを誇ることが出来るばかりであった。それはこれ等のものは時々どんどんと降って来た、然るにスクルージには綺麗に金子を払うと云うことは金輪際なかった。
 何人もかつて往来で彼を呼び留めて、嬉しそうな顔つきをして、「スクルージさん、御機嫌はいかがですか。何日私の許へ会いに来て下さいます?」なぞと訊く者はなかった。乞食も彼に一文遣って下さいと縋ったことがなく、子供達も今いつです? と彼に訊いたことがなかった。男でも女でも、彼の生れてから未だ一度も、こうこういうところへはどう行きますかと、スクルージに道筋を訊ねた者はなかった。盲人の畜犬ですら、彼を知っているらしく、彼がやって来るのを見ると、その飼主を戸口の中や路地の奥へ引っ張り込んだものだ。そして、それから「丸っ切り眼のないものはまだしも悪の眼を持っているより優《ま》しですよ、盲人の旦那」とでも云うように、その尾を振ったものだ。
 だが、何をそんな事スクルージが気に懸けようぞ! それこそ彼の望むところであった。人情なぞは皆遠くに退いておれと警告しながら、人生の人ごみの道筋を押し分けて進んで行くことが、スクルージに取っては通人の所謂『大好物』であった。
 ある時――日もあろうに、聖降誕祭の前夜に――老スクルージは事務所に坐っていそがしそうにしていた。寒い、霜枯れた、噛みつくような日であった。おまけに霧も多かった。彼は戸外の路地で人々がふうふう息を吐いたり、胸に手を叩きつけたり、煖くなるようにと思って敷石に足をばたばた踏みつけたりしながら、あちらこちらと往来しているのを耳にした。街の時計は方々で今し方三時を打ったばかりだのに、もうすっかり暗くなっていた。――もっとも終日明るくはなかったのだ。――隣近所の事務所の窓の中では、手にも触れられそうな鳶色をした空気の中に、赤い汚点の様に、蝋燭がはたはたと揺れながら燃えていた。霧はどんな隙間からも、鍵穴からも流れ込んで来た。そして、この路地はごくごく狭い方だのに、向う側の家並はただぼんやり幻影の様に見えたほど、戸外は霧が濃密であった。どんよりした雲が垂れ下がって来て、何から何まで蔽い隠して行くのを見ると、自然がつい近所に住んでいて、素敵もない大きな烟の雲を吐き出しているんだと考える人があるかも知れない。
 スクルージの事務所の戸は、大桶のような、向うの陰気な小部屋で、沢山の手紙を写している書記を見張るために開け放しになっていた。スクルージはほんのちっとばかりの火を持っていた。が、書記の火はもっともっとちょっぽりで、一片の石炭かと見える位であった。でも、彼は、スクルージが石炭箱を始終自分の部屋にしまって置いたので、それを継ぎ足す訳に行かなかった。書記が十能をもって這入って行くたんびに、きっと御主人様は、どうしても君と僕とは別れなくちゃなるまいねと予言したものだ。それが為に、書記は首に白い襟巻を巻きつけて、蝋燭で煖まろうとして見た。が、元々想像力の強い人間ではなかったので、こんな骨折りをして見ても甲斐はなかった。
「聖降誕祭でお目出とう、伯父さん!」と、一つの快活な声が叫んだ。これはスクルージの甥の声であった。彼は大急ぎで不意にスクルージの許へやって来たので、スクルージはこの声で始めて彼が来たことに気が附いた位であった。
「何を、馬鹿々々しい!」とスクルージは言った。
 彼は霧と霜の中を駆け出して来たので、身体が煖まって、どっからどこまで真赤になっていた。スクルージのこの甥がですよ。顔は赤く美しく、眼は輝いて、ほうほうと白い息を吐いていた。
「聖降誕祭が馬鹿々々しいんですって、伯父さん!」と、スクルージの甥は云った。「まさかそう云う積りじゃないでしょうねえ?」
「そういう積りだよ」とスクルージは云った。「聖降誕祭お目出とうだって! お前が目出たがる権利がどこにある? 目出たがる理由がどこにあるんだよ? 貧乏しきっている癖に。」[#「。」」は底本では「」。」]
「さあ、それじゃ」と甥は快活に言葉を返した。「貴方が陰気臭くしていらっしゃる権利がどこにあるんです? 機嫌を悪くしていらっしゃる理由がどこにあるのですよ? 立派な金持ちの癖に。」[#「。」」は底本では「」。」]





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