クリスマス・カロル(ディケンズ)(16) (くりすますかろる)

クリスマス・カロル(ディケンズ)(16)

   第四章 最後の精霊

 幽霊は徐々に、厳かに、黙々として近づいて来た。それが彼の傍に近く来た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精霊は自分の動いているその空気中へ陰鬱と神秘とを振り撒いているように思われたからである。
 精霊は真黒な衣に包まれていた。その頭も、顔も、姿もそれに隠されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかった、この手がなかったら、夜からその姿を見別けることも、それを包囲している暗黒からそれを区別することも困難であったろう。
 彼はそれが自分の傍へ来た時、その精霊の背が高く堂々としていることを感じた。そして、そう云う不可思議なものがそこに居ると云うことのために、自分の心が一種厳粛な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかった。と云うのは、精霊は口も利かなければ、身動きもしなかったから。
「私はこれから来る聖降誕祭の精霊殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云った。
 精霊は返辞をしないで、その手で前の方を指した。
「貴方はこれまでは起らなかったが、これから先に起ろおうとしている事柄の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので御座いますね」と、スクルージは言葉を続けた。「そうで御座いますか、精霊殿?」
 精霊が頭を傾《かし》げでもしたように、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辞であった。
 スクルージもこの頃はもう大分幽霊のお相手に馴れていたとは云え、この押し黙った形像に対しては脚がぶるぶる顫えたほど恐ろしかった。そして、いざこれから精霊の後に随いて出て行こうと身構えした時には、どうやら真直《まっすぐ》に立ってさえいられないことを発見した。精霊も彼のこの様子に気が附いて、少し待って落ち着かせて遣ろうとでもするように、一寸立ち停まった。
 が、スクルージはこれがためにますます具合が悪くなった。自分の方では極力眼を見張って見ても、幽霊の片方の手と一団の大きな黒衣の塊の外に何物をも見ることが出来ないのに、あの薄黒い経帷子の背後では、幽霊の眼が自分をじっと見詰めているのだと思うと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身体中がぞっとした。
「未来の精霊殿!」と、彼は叫んだ。「私は今までお目に懸かった幽霊の中で貴方が一番怖ろしゅう御座います。しかし貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、また私も今までの私とは違った人間になって生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思ってするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでしょうか。」
 精霊は何とも彼に返辞をしなかった。ただその手は自分達の前に真直に向けられていた。
「御案内下さい!」と、スクルージは云った。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん経ってしまいます。そして、私に取っては尊い時間で御座います。私は存じています。御案内下さい、精霊殿!」
 精霊は前に彼の方へ近づいて来た時と同じように動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に随いて行った。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くように思った。
 二人は市内へ這入って来たような気がほとんどしなかった、と云うのは、むしろ市の方で二人の周囲に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたように思われたからである。が、(いずれにしても)彼等は市の中心にいた。すなわち取引所に、商人どもの集っている中にいた。商人どもは忙しそうに往来したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになって話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考え込みながら自分の持っている大きな黄金の刻印を弄《いじ》ったりしていた。その他スクルージがそれまでによく見掛たような、いろいろな事をしていた。
 精霊は実業家どもの小さな一群の傍に立った。スクルージは例の手が彼等を指差しているのを見て、彼等の談話を聴こうと進み出た。
「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥った大漢が云った。「どちらにしても、それについちゃ好くは知りませんがね。ただあの男が死んだってことを知っているだけですよ」
「いつ死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。
「昨晩だと思います。」
「だって、一体いかがしたと云うのでしょうな?」と、またもう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうん[#「うん」に傍点]と取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にそうもないように思ってましたがね。」
「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云った。
「一体あの金子はいかがしたのでしょうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえら[#「えら」に傍点]のような瘤をぶらぶら下げた赤ら顔の紳士が云った。
「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云った、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでしょうよ。(とにかく)私には遺して行きませんでしたね。私の知っているのはこれっきりさ。」
 この冗談で一同はどっと笑った。
「極く安直《あんちょく》なお葬《とむらい》でしょうな」と、同じ男が云った。「何しろ会葬者があると云うことは全然《まるで》聞かないからね。どうです、我々で一団体つくって義勇兵になっては?」
「お弁当が出るなら行っても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云った。「だが、その一人になるなら、喰わせるだけは喰わせて貰わなくっちゃね。」
 一同また大笑いをした。
「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云った。「僕はこれまでまだ一度も黒い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬礼の弁当を喫べたこともないからね。しかし誰か行く者がありゃ、僕も行きますよ。考えて見れば、僕は決してあの人の一番親密な友人でなかったとは云えませんよ。途で会えば、いつでも立ち停って話しをしたものですからね。や、いずれまた。」
 話手も聴手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混ってしまった。スクルージはこの人達を知っていた。で、説明を求めるために精霊の方を見遣った。
 幽霊はだんだん進んである街の中へ滑り込んだ。幽霊の指は立ち話しをしている二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだろうと思って、再び耳を傾けた。
 彼はこの人達もまたよく知り抜いていた。彼等は実業家であった。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思われようと始終心掛けていた。つまり商売上の見地から見て、厳密に商売上の見地から見て、よく思われようと云うのである。
「や、今日は?」と、一人が云った。
「や、今日は?」と、片方が挨拶した。
「ところで」と、最初の男が云った。「彼奴もとうとうくたばり[#「くたばり」に傍点]ましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」
「そうだそうですね」と、相手は返辞をした。「随分お寒いじゃありませんか、ええ?」
「聖降誕祭の季節なら、これが順当でしょう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」
「いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますからね。左様なら!」
 このほかに一語もなかった。これがこの二人の会見で、会話で、そして別れであった。
 最初スクルージは精霊が外見上こんな些細な会話に重きを置いているのにあきれかえろうとしていた。が、これには何か隠れた目算があるに違いないと気が附いたので、それは多分何であろうかとつくづく考えて見た。あの会話が元の共同者なるジェコブの死に何等かの関係があろうとはどうも想像されない、と云うのは、それは過去のことで、この精霊の領域は未来であるから。それかと云って、自分と直接関係のある人で、あの会話の当て嵌まりそうな者は一人も考えられなかった。しかし何人にそれが当て嵌まろうとも、彼自身の改心のために何か隠れた教訓が含まれていることは少しも疑われないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置こうと決心した。そして、自分の影像が現われたら、特にそれに注意しようと決心した。と云うのは、彼の未来の姿の行状が自分の見失った手掛りを与えてくれるだろうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだろうと云う期待を持っていたからである。
 彼は自分の姿を求めて、その場で四辺を見廻わした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立っていた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けている時刻を指していたけれども、玄関から流れ込んで来る群衆の中に自分に似寄った影も見えなかった。とは云え、それはさして彼を驚かさなかった。何しろ心の中に生活の一変を考え廻らしていたし、またその変化の中では新たに生れた自分の決心が実現されるものと考えてもいたし、望んでもいたからである。
 静かに黒く、精霊はその手を差し伸べたまま彼の傍に立っていた。彼が考えに沈んだ探究から眼を覚ました時、精霊の手の向き具合と自分に対するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めているなと思った。そう思うと、彼はぞっと身顫いが出て、ぞくぞく寒気がして来た。





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