クリスマス・カロル(ディケンズ)(18) (くりすますかろる)
クリスマス・カロル(ディケンズ)(18)
老ジョーが銭の入っているフランネルの嚢を取り出して、床の上に銘々の所得を数え立てた時に、例の女は「はッ、はァ!」と、笑った。「これが事の結末《むすび》でさあね。彼奴が生きていた時分は、誰でも彼でも脅《おど》かして傍《そば》へ寄せ附けなかったものだが、そのお蔭で死んでから私達を儲けさしてくれたよ。はッ、はッ、はァ!」
「精霊殿!」と、スクルージは頭から足の爪先までぶるぶると顫えながら云った。「分りました。分りました。この不幸な人間のように私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりゃどうしたのでしょう!」
目の前の光景が一変したので、彼はぎょっとして後へ退った。彼は今やほとんど一つの寝床に触れようとしていたのだ。帷幄も何もない露出《むきだ》しの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽われて、何物かが横わっていた。それは何とも物は云わないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言していた。
この部屋は非常に暗かった、どんな風の部屋であるか知りたいと思う内心の衝動に従って、スクルージはその部屋の中をぐるりと見廻わしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには余りに暗かった。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が真直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪われて、誰一人見張っている者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手《して》もないままで、この男の死体が横わっていた。
スクルージは精霊の方を見やった。そのびく[#「びく」に傍点]ともしない手は死体の頭部を指していた。覆い物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただろうと思われるほど、いかにもぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]に当てがわれていた。彼はその事について考えた。そうするのがいかにも造作ないことだと云うことにも気が附いた、結局そうしたいとも思って見た。が自分の傍からこの精霊を退散させる力が自分にないと同様に、この覆い物を引《ひ》き剥《め》くるだけの力がどうしても彼にはなかった。
お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、ここに汝の祭壇を設《しつら》えよ。そして、汝の命令のままになるような、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領国なればなり。ながらしかし愛されたる、尊敬せられたる、名誉づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出来ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出来ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。またその心臓も脈も静かに動かないからではない。否、その手は生前気前よく、鷹揚で、誠実であったからである。その心は勇敢で、暖かで、優しかったからである。そして、その脈搏は真の人間のそれであったからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!
何等の声がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やった時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考えた、万一この人間が今生き返ることが出来たとしたら、先ず第一に考えることはどんな事であろうかと。貪欲か、冷酷な取引か、差し込むような苦しい心遣いか。こう云うものは彼を結構な結果に導いてくれた、まったくね!
「この人はこう云うことで私に親切にしてくれた、ああ云うことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云って呉れるような、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝ていた。一疋の猫が入口の戸を引掻いていた、炉石の下ではがりがり噛じっている鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在って何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそわそわしているのか、スクルージはとても考えて見るだけの勇気がなかった。
「精霊殿!」と、彼は云った。「これは恐ろしい所です。ここを離れたところで、ここで得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云うことを信じて下さい。さあ参りましょう!」
ところが、精霊はまだじっと一本の指でその頭部を指していた。
「もう解りました」と、スクルージは返辞をした。「私も出来ればそうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精霊殿。それだけの力がないのです。」
またもや精霊は彼の方を見ているらしかった。
「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあったら」と、スクルージはもうこの上見てはいられないような気持で云った。「なにとぞその人を私に見せて下さい。精霊殿、お願いで御座います!」
精霊は一瞬間彼の前にその真黒な衣を翼のように拡げた。そして、それを引いた時には、そこに昼間の部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。
その女は誰かを待っているのであった。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びているのであった。と云うのは、彼女が部屋の中を頻りに往ったり来たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がったり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかったりした。そして、(傍で)遊んでいる子供達の声を平気で聞いていられないほど苛々していたからである。
やっと待ち焦れていた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎えた。良人と云うのは、まだ若くはあるが、気疲れで、滅入り切ったような顔をした男であった。が、今やその顔には著しい表情が現われていた、自分ながら恥かしいことに思って、抑えようと努めてはいるが、どうも圧え切れないような、容易ならぬ喜びの表情であった。
その男は炉の側《はた》に自分のためにとて蓄《と》って置かれてあった御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈黙していた後で、)彼は何と返辞をしたものかと当惑しているように見えた。
「好かったのですか」と、彼女は相手を助けるように云った。「それとも悪いのですか。」
「悪いんだ」と、彼は答えた。
「私達はすっかり身代限りですね?」
「いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。」
「あの人の気が折れれば」と、彼女は意外に思って云った、「望みはありますわ! 万一そんな奇蹟が起ったのなら、決して望みのない訳ではありませんよ。」
「気の折れるどころではないのさ」と、彼女の良人は云った。「あの人は死んだんだよ。」
彼女の顔つきが真実を語っているものなら、彼女は温和《おとな》しい我慢強い女であった。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思った。そして、両手を握ったまま、そうと口走った。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願った。そして、(相手を)気の毒がった。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であった。
「昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実《ほんとう》のことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。」
「それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?」
「そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣《あとつぎ》がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!」
出来るだけその心持を隠すようにはしていたが、二人の心はだんだん軽くなって行った。子供達は解らないながらもその話を聞こうとして、鳴りを鎮めて周囲に集まっていたが、その顔はだんだん晴れ晴れして来た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になった家庭であった。この出来事に依って惹起された感情の中で、精霊が彼に示すことの出来た唯一のものは喜悦のそれであった。
「人の死に関係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云った。「でないと、今しがた出て来たあの暗い部屋がね、精霊殿、いつまでも私の眼の前にちらついているでしょうからね。」
精霊は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行った。歩いて行く間に、スクルージは自分の姿を見出そうと彼方此方を見廻わしたものだ。が、どこにもそれは見附からなかった。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチットの家に這入った。すると、母親と子供達とは煖炉の周りに集まって坐っていた。
静かであった。非常に物静かであった。例の騒がしい小クラチットどもは立像のように片隅にじっと塊《かた》まって、自分の前に一册の本を拡げているピータアを見上げながら腰掛けていた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしていた。が、確かに彼等は非常に静かにしていた。
「『また孩子《おさなご》を取りて、彼等の中に立てて、さて‥‥』」
スクルージはそれまでどこでこう云う言葉を聞いたことがあるか。彼はそれまでそれを夢に見たこともなかった。彼と精霊とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を読み上げたものに違いない。だが彼はどうしてその先を読み続けないのか。
母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を当てた。
「どうも色が眼にさわってねえ」と、彼女は云った。
色が? ああ、可哀そうなちび[#「ちび」に傍点]のティムよ!
「もう快《よ》くなりましたよ」と、クラチットの主婦《かみ》さんは云った。「蝋燭の光では、黒い物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお帰りの時分には、どんな事があっても、どんよりした眼をお目にかけまいと思ってるんだよ。そろそろもうお帰りの時分だね。」
「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉じながら云った。「だが、阿父さんはこの四五日今までよりは少しゆっくり歩いて戻ってらっしゃるようだと思いますよ、ねえ阿母さん。」
彼等はまたもやひっそりとなった。が、漸くにして、彼女は云った、それもしっかりした元気の好い声で――それは一度慄えただけであった。――
「阿父さんは好くちび[#「ちび」に傍点]のティムを肩車に乗せてお歩きになったものだがねえ、それもずいぶん速くさ。」
「僕もおぼえています」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」
「わたしも覚えていますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覚えているのであった。
「何しろあの児は軽かったからね」と、彼女は一心に仕事を続けながら、再び云った。「それに阿父さんはあの児を可愛がっておいでだったので、肩車に乗せるのが些《ちっ》とも苦にならなかったのだよ、些とも。ああ阿父さんのお帰りだ!」
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