クリスマス・カロル(ディケンズ)(04) (くりすますかろる)

クリスマス・カロル(ディケンズ)(04)

 居間、寝室、物置。すべてが依然として元の通りになっていた。卓子の下にも、長椅子の下にも、誰もいなかった。煖炉には少しばかりの火が残っていた。匙も皿も用意してあった。粥(スクルージは鼻風を引いていた)の小鍋は炉房の棚の上にあった。寝床の下にも、誰もいなかった。押入の中にも誰もいなかった。寝間着は胡散臭い恰好をして壁に懸かっていたが、その中にも誰もいなかった。物置も普段の通りであった。古い煖炉の蓋と、古靴と、二個の魚籠と、三脚の洗面台と、火掻き棒があるばかりであった。
 すっかり安心して、彼は戸を閉めて、錠を下ろした。二重に錠を下ろした、それは彼の習慣ではなかった。こうして先ず不意打ちを喰う恐れをなくして置いて、彼は頸飾を外した。寝間着を着て上靴を穿いて、寝帽を被った。それから粥を啜ろうとして煖炉の前に坐った。
 実際それは極めてとろい火であった。こんな厳寒の晩には有れども無きが如きものであった。で、余儀なくその火の近くへ寄って腰を下ろして、長い間その上に伸しかかっていた。そうしなければ、こんな一握の焚物からは暖かいと云うほん[#「ほん」に傍点]の僅かな感じでも引き出すことは出来なかったのだ。煖炉はずっと以前に和蘭のある商人が拵えた古い物で、周囲には聖書の中の物語を絵模様にした、風変りな和蘭の瓦が敷き詰めてあった。カインや、アベルや、パロの娘達や、シバの女王達、羽布団のような雲に乗って空から降ってくる天の使者や、アブラハムや、ベルシャザアや、牛酪皿に乗って海に出て行こうとしている使者達や、幾百と云う彼の心を惹く人物がそこに描かれていた。しかも七年前に死んだマアレイのあの顔が古えの予言者の鞭のように現れて来て、総ての人間を丸呑みにしてしまった。若しこの滑っこい瓦がいずれも最初は白無地に出来ていて、その表に取りとまりのない彼の考えの断片から取って、何かの絵を形成する力を持っていたとしたら、どの瓦にも老マアレイの頭が写し出されたことであろう。
「馬鹿な!」と、スクルージは云った。そして、室の中をあちこちと歩いた。
 五六度往ったり来たりした後で、彼はまた腰を下ろした。彼が椅子の背に頭を凭せかけた時、不図一つの呼鈴に眼が着いた。それはこの室の中に懸っていて、今は忘れられたある目的のために、この建物の最上階にある一つの室と相通ずるようになっていた、この頃は使われない呼鈴であった。で、見上げた途端に、この呼鈴がゆらゆら揺れだしたので、彼は非常に驚いた。いや、不思議な何とも云われない恐怖の念に襲われた。最初は、ほとんど音も立てないほど、極めて緩やかに揺れていた。が、じきに高く鳴り出した。そして、家の中のどの鈴も皆同じように鳴り出した。
 これが続いたのは半分か一分位のものであったろう。が、それは一時間も続いたように思われた。呼鈴は鳴り出したときと同じく、一斉に止んだ。その後に、階下のずっと下の方で、チャランチャランと云う、ちょうど誰かが酒屋のあなぐらの中にある酒樽の上を重い鎖でも引き摺っているような音が続いた。その時スクルージは化物屋敷では幽霊が鎖を引き摺っているものだと云われたのを聞いたことがあるように追想した。
 あなぐらの戸はぶん[#「ぶん」は底本では「ふん」]と唸りを立てて開いた。それから彼は前よりも高くなったその物音を階下の床の上に聞いた。それから階子段を上って来るのを、それから真直に彼の室の戸口の方へやって来るのを聞いた。
「まだ馬鹿な真似をしてやがる!」と、スクルージは云った。「誰がそれを本気に受けるものか。」
 とは云ったものの、一瞬の躊躇もなく、それが重い戸を通り抜けて室の中へ、しかも彼の眼の前まで這入り込んで来た時には、彼も顔色が変った。それが這入って来た瞬間に、消えかかっていた(蝋燭の)焔はちょうど「私は彼を知っている! マアレイの幽霊だ!」とでも叫ぶように、ぱっと跳ね上がって、また暗くなった。
 同じ顔、紛れもない同じ顔であった。弁髪を着けた、いつもの胴衣に、洋袴に、長靴を着けた、マアレイであった。靴に附いた※[#「糸+遂」、24-18]《ふさ》は、弁髪や、上衣の裾や、頭の髪と同じように逆立っていた。彼の曳き摺って来た鎖は腰の周りに絡みついていた。それは長いもので、ちょうど尻尾のように、彼をぐるぐる捲いていた。それは(スクルージは精密にそれを観察して見た)、弗箱や、鍵や、海老錠や、台帳や、証券や、鋼鉄で細工をした重い財嚢やで出来ていた。彼の体躯は透き通っていた。そのために、スクルージは、彼を観察して、胴衣を透かして見遣りながら、上衣の背後に附いている二つの釦子《ぼたん》を見ることが出来た位であった。
 スクルージはマアレイが腸《はらわた》を持たないと云われていたのを度々聞いたことがあった。が、今までは決してそれを本当にしてはいなかった。
 いや、今でもそれを本当にはしなかった。彼は幽霊をしげしげ[#「しげしげ」は底本では「しけじけ」]と見遣って、それが自分の前に立っているのだとは承知してはいたけれども、その死のように冷い眼の人をぞっとさせるような影響を感じてはいたけれども、また頭から顎へかけて捲き附けていた褶んだ半帛の布目に気が附いてはいたけれども――こんな物を捲き附けているのを彼は以前見たことがなかった、――それでもまだ彼は本当に出来なくって、我と我が感覚を疑おうとした。
「どうしたね!」と、スクルージは例の通り皮肉に冷淡に云った。「何ぞ私に用があるのかね。」
「沢山あるよ。」――マアレイの声だ、疑うところはない。
「貴方は誰ですか?」
「誰であったかと訊いて貰いたいね。」
「じゃ、貴方は誰であったか」と、スクルージは声を高めて云った。「幽霊にしては、いやにやかましいね。」彼は「些細なことまで」と云おうとしたのだが、この方が一層この場に応《ふさ》わしいと思って取り代えた。(註、「幽霊にしては」と「些細なことまで」が原語では語呂の上の「しゃれ」になっているのである。)
「存生中は、私は貴方の仲間、ジェコブ・マアレイだったよ。」
「貴方は――貴方は腰を掛けられるかね」と、スクルージはどうかなと思うように相手を見ながら訊ねた。
「出来るよ。」
「じゃ、お掛けなさい。」
 スクルージがこの問を発したのは、こんな透明な幽霊でも椅子なぞに掛けられるものかどうか、彼には分らなかったからである。そして、それが出来ないという場合には、幽霊も面倒な弁解の必要を免れまいと感じたからである。ところが、幽霊はそんな事には馴れ切っているように、煖炉の向う側に腰を下ろした。
「お前さんは私を信じないね」と、幽霊は云った。
「信じないさ」と、スクルージは云った。
「私の実在については、お前さんの感覚以上にどんな証拠があると思っているのかね。」
「私には分らないよ」と、スクルージは云った。
「じゃ、何だって自分の感覚を疑うのか。」
「だって」と、スクルージは云った、「些細な事が感覚には影響するものだからね。胃の工合が少し狂っても感覚を詐欺師にしてしまうよ。お前さんは消化し切れなかった牛肉の一片かも知れない。芥子の一点か、乾酪の小片か、生煮えの薯の砕片位のものかも知れないよ。お前さんが何であろうと、お前さんには墓場よりも肉汁の気の方が余計にあるね。」
 スクルージはあまり戯談なぞ云う男ではなかった。またこの時は心中決して剽軽な気持になってもいなかった。実を云えば、彼はただ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎮めたりする手段として、気の利いた事でも云って見ようとしたのであった。それと云うのも、その幽霊の声が骨の髄まで彼を周章せしめたからであった。
 一秒でも黙って、このじっと据わった、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けていようものなら、それこそ自分の生命に関わりそうに、スクルージは感じた。それに、その幽霊が幽霊自身の地獄の風を身の周りに持っていると云うことも、何か知ら非常に恐ろしい気がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかった。しかしそれは明白に事実であった。と云うのは、この幽霊は全然身動きもしないで腰掛けていたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴の※[#「糸+遂」、27-7]が、竈から昇る熱気にでも吹かれているように、始終動いていたからである。
「この楊子は見えるだろうね?」と、スクルージは今挙げたような理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、また一つにはただの一秒間でもよいから、幽霊の石のような凝視を側《わき》へ逸《そ》らしたいと望みながら訊いた。
「見えるよ」と、幽霊が答えた。
「楊子の方を見ていないじゃないか」と、スクルージは云った。
「でも、見えるんだよ」と、幽霊は云った。「見ていなくてもね。」
「なるほど!」と、スクルージは答えた。「私はただこれを丸呑みにしさえすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵えた化物の一隊に始終いじめられてりゃ世話はないや。馬鹿々々しい、本当に馬鹿々々しいやい!」
 これを聞くと、幽霊は怖ろしい叫び声を挙げた。そして、物凄い、慄然《ぞっ》とするような物音を立てて、その鎖を揺振《ゆすぶ》ったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。しかし幽霊が室内でこんな物を巻いているのはちと暖か過ぎるとでも云うように頭からその繃帯を取り外したので、その下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかったことであろう!
 スクルージはいきなり跪いて、顔の前に両手を合せた。
「お助け!」と彼は云った。「恐ろしい幽霊様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」
「世間の欲に眼の暮れた男よ」と、幽霊は答えた。「お前は私を信ずるかどうじゃ?」
「信じます」と、スクルージは云った。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽霊が出るのですか。また何だって私の許へやって来るのですか。」
「誰しも人間というものは」と、幽霊は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行って、あちこちとひろく旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうするように申し渡されているのだ。世界中をうろつき歩いて、――ああ悲しいかな!――そして、この世に居たら共に与かることも出来たろうし、幸福に転ずることも出来たろうが、今は自分の与かることの出来ない事柄を目撃するように、その魂は運命を定められているのだよ。」
 幽霊は再び叫び声を挙げた。そして、その鎖を揺振って、その幻影のような両手を絞った。






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