クリスマス・カロル(ディケンズ)(07) (くりすますかろる)

クリスマス・カロル(ディケンズ)(07)

 天気と時刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言《あらが》って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。
「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」
「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」
 こう云っているうちに、彼等は壁[#「壁」は底本では「塵」]を突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦《ロンドン》の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。
「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」
 精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほん[#「ほん」に傍点]の瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。
「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」
 スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡《にきび》だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。
「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。
「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」
「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」
 二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆《くね》った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々《すがすが》しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
 陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退《ひ》けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
 スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
 彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。
 彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火《とろび》の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。
 家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊[#「白楊」は底本では「柏楊」]の葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。
 精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。
「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王《サルタン》の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」
 スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。
「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺《てっぺん》から萵苣《ちしゃ》[#「萵苣」は底本では「萵苔」]のようなものを生《は》やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日《フライデー》が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆[#「駆」は底本では「騙」]け出して行く、しっかり! おーい! しっかり!」
 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。
「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」
「一体どうしたと云うんだね?」
「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」
 幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。
 こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片《かけら》が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送