クリスマス・カロル(ディケンズ)(08) (くりすますかろる)
クリスマス・カロル(ディケンズ)(08)
彼は今や読書していなかった、落胆《がっかり》したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。
その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。
「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅《うち》へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」
「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。
「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」
「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。
彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。
誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片《ひとかけら》とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。
「いつも脾弱《ひよわ》な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」
「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」
「彼女は一人前になって死んだ」と、幽霊は云った、「そして、子供達もあったと思うがね。」
「一人です」と、スクルージは答えた。
「いかにも、」と、幽霊は云った。「お前さんの甥だ!」
スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡単に「そうです」と答えた。
彼等はその瞬間学校を後にして出て来たばかりなのに、今はある都会の賑やかな大通りに立っていた。そこには影法師のような往来の人が頻りに往ったり来たりしていた。そこにはまた影法師のような荷車や馬車が道を争って、あらゆる実際の都市の喧騒と雑閙とがあった。店の飾り附けで、ここもまた聖降誕祭の季節であることは、明白に分っていた。ただし夕方であって、街路には灯火が点いていた。
幽霊はある商店の入口に立ち停まった。そして、スクルージにそれを知っているかと訊ねた。
「知っているかですって!」と、スクルージは答えた。「私はここで丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」
彼等は中に這入って行った。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛糸で編んだ帽子のこと。)を被った老紳士が、今二インチも自分の身丈《せい》が高かろうものなら、きっと天井に頭を打ち附けたろうと思われるような、丈の高い書机の向うに腰掛けているのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。
「まあ、これは老フェッジウィッグじゃないか! ああ! フェッジウィッグがまた生き返った!」
老フェッジウィッグは鉄筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指していた。彼は両手を擦った。たぶたぶした胴服《チョッキ》をきちんと直した。靴の先から頭の頂辺まで、身体中揺振って笑った。そして、気持の好さそうな、滑らかな、巾のある、肥った、愉快そうな声で呼び立てた―――
「おい、ほら! エベネザア! ディック!」
今や立派な若者になっていたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入って来た。
「ディック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽霊に向って云った。「なるほどそうだ。あそこに居るわい。彼奴は私に大層懐いていたっけ、可哀そうに! やれ、やれ!」
「おい、子供達よ」と、フェッジウィッグは云った。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だよ、ディック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまえ」と、老フェッジウィッグは両手を一つぴしゃりと鳴らしながら叫んだ、「とっとと仕舞うんだぞ!」
読者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣っ附けたかを話しても信じないであろう。二人は戸板を持って往来へ突進した――一、二、三――その戸板を嵌めべき所へ嵌めた――四、五、六――戸板を嵌めて目釘で留めた――七、八、九――そして、読者が十二まで数え切らないうちに、競馬の馬のように息を切らしながら、家の中へ戻って来た。
「さあ来た!」と、老フェッジウィッグは吃驚するほど軽快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、ここに沢山の空地を作るんだよ。さあ来た、ディック! 元気を出せ、エベネザア!」
片附けろだって! 何しろ老フェッジウィッグが見張っているんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出来ないものもなかった。一分間で出来てしまった。動かすことの出来るものは、ちょうど永久に公的生活から解雇されたように、ことごとく包んで片附けられてしまった。床は掃いて水を打たれた、洋灯は心を剪られた、薪は煖炉の上に積み上げられた。こうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むような、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と変った。
一人の提琴手が手に楽譜帳を持って這入って来た。そして、あの高い書机の所へ上って、それを奏楽所にした。そして、胃病患者が五十人も集ったように、げえげえ云う音を立てて調子を合せた。フェッジウィッグ夫人すなわちでぶでぶ肥った愛嬌の好い女が這入って来た。三人のにこにこした可愛らしいフェッジウィッグの娘が這入って来た。その三人に心を悩まされている六人の若者が続いて這入って来た。この店に使われている若い男や女もことごとく這入って来た。女中はその従弟の麺麭焼きの職工と一緒に這入って来た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云う牛乳配達と一緒に這入って来た。道の向う側から来たと云う、主人から碌《ろく》すっぽ喰べさせて貰わないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引っ張られたと云うことが後で分かった女中の背後に隠れるようにしながら這入って来た。一人また一人と、追い追いに衆皆《みんな》が這入って来た。中には極り悪そうに這入って来る者もあれば、威張って這入って来る者もあった。すんなりと這入って来る者もあれば、不器用に這入って来る者もあった。押して這入って来る者もあれば、引張って這入って来る者もあった。とにかくどうなりこうなりしてことごと皆這入って来た。たちまち彼等は二十組に分れた。室を半分廻って、また他の道を戻って来る、室の真中を降りて行くかと思えばまた上って来る、仲の好い組合せの幾段階を作ってぐるぐる廻って行く。前の先頭の組はいつも間違った所でぐるりと曲って行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終いには先頭の組ばかりになって、彼等を助ける筈のしんがりの組が一つも後に続かないと云う始末だ。こんな結果になった時、老フェッジウィッグは舞踏を止めさせるように両手を叩きながら、大きな声で「上出来!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、黒麦酒の大洋盃の中へ真赧になった顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云わんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構わず、直ぐさままたやり始めたものだ。ちょうどもう一人の提琴手が疲れ果てて戸板に載せて家へ連れ帰られたので、自分はその提琴手をすっかり負かしてしまうか、さもなければ自分が斃れるまでやり抜こうと決心した真新しい人間でもあるように。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||