[00002] チャールズ・ディケンズ

■チャールズ・ディケンズ


チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812年2月7日 - 1870年6月9日)はイギリスのヴィクトリア朝を代表する小説家の1人。サッカレーと並び称されることもあるが、作風は対照的である。


●伝記

チャールズ・ディケンズ海軍の会計吏ジョン・ディケンズの子としてポーツマスに生まれ、のち造船所のあるチャタム、そしてロンドンに移る。ことに、6年間を過ごしたケント州の港町チャタム(Chatham)はディケンズの心の故郷となった。少年期は病弱であり、フィールディング、デフォー、セルバンテスなどを濫読した。中流階級に生まれたが、父親ジョンが金銭感覚に乏しい人物であり、濫費によってロンドン時代に生家が破産。そのために父母がマーシャルシー債務者監獄に収監される、という悲運に会い、チャールズ少年も12歳で独居し、親戚の経営していた靴墨工場へ働きに出される。この工場での、粗暴な少年たちに囲まれた孤独な日々は、ディケンズの精神に深い傷を残した。こうした経緯もあり、受けた教育は不完全なものだった。父親は後に、『ディヴィッド・コパフィールド』の有名な登場人物であるミコーバー氏のモデルとなったとされる。

その後家族に遺産が入り、父母も監獄を出ることが出来た。苦学して法廷の速記者となる。定職の片手間に「ボズ」という筆名で書き始めた投稿エッセイが1833年、初めてマンスリー・マガジン誌に掲載され、ディケンズを感激させた。なお、この時期の筆名の「ボズ」とは、ディケンズの弟オーガスタスに付けられたあだ名に由来するとされる。こうしたエッセイは後にまとめられ、1836年、処女作『ボズのスケッチ』として結実した。

続いて、初めての長編小説『ピクウィック・クラブ』が大成功し、第一流の小説家として文才を認められた。小説家としてのディケンズの人気はその後、終生衰えることがなかった。

ディケンズは編集者の娘であるキャサリン・メアリを愛していたが、まだ幼かったこともあり、結局その姉のキャサリン・ホガースと1836年に結婚した。2人は10人の子に恵まれたが、性格の不一致のため結婚生活はうまくいかなかった。なお、メアリはディケンズの結婚後もディケンズ夫妻の住まいに同居しており、この翌年急死した時にはディケンズにしばらく執筆活動を中断させるほどの打撃を与えている。

1842年に夫人とともに訪米し、長期のアメリカ旅行を行った。ただ、南北戦争前夜の米国は(当時の著作権問題などもあって)良い印象をディケンズに与えなかった。そのため、帰国後の旅行記『アメリカ紀行』で公表された米国観はあまり良いものではなく、米国でも不評であった。もっとも、南北戦争後の1867年に再訪した際には、大歓迎を受けて印象を改めている。

晩年はエレン・ターナンと不倫関係にあり、1858年から夫人とは別居していたが、これはディケンズの死後まで公的には秘密にされていた。創作力の衰えと平行して、執筆を離れて公衆の前での公開朗読に熱中し、過労で死期を早めた。(2度目の米国旅行の際にも、各地で公開朗読を行っている。)1865年には鉄道の事故に巻き込まれて九死に一生を得る。この事件も、晩年の作品に目立つ暗い影の一因ではないかと言われている。

ケント州ギャッズ・ヒルの広壮な邸宅で、脳卒中により死去した。死後、ディケンズ自身はロチェスターに一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウエストミンスター寺院の詩人のコーナーに埋葬された。

墓碑銘は"He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England’s greatest writers is lost to the world."(「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた。」)となっている。


●作風

一般にプロットの巧みさなどにはやや難があり、最良の部分は人物描写などの細部にある、と言われることが多い。多作家でもあるため出来栄えにムラがあるが、『大いなる遺産』などの名作では、そうした描写力に、映画のカメラワークにも似た迫真のストーリー・テリングが加わり、読者をひきつける。精密な観察眼と豊かな想像力で、時代社会の風俗を巧みに描いた。

日常生活の描写は具体的で、丹念に細部に亘って生き生きと写し出されており、登場人物の性格はシェイクスピアのそれに比して多種多様であり、ほとんどが典型として戯画化されているにもかかわらず、型を破ってはみ出すような生命力に満ちている。

また、幼少時の貧乏の経験から自ずと労働者階級に同情を寄せ、時に感傷が過度になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。

しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件 (Morant Bay rebellion)(植民地における圧制への黒人による反乱と、その鎮圧事件)ではカーライルなどと共に総督エア側に組して、反乱を擁護しエアを弾劾するジョン・スチュアート・ミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されている訳ではない。

後期には、健康状態の衰えなどの影響もあり、徐々に悲観的な価値観に傾斜していく。作品発表のペースも落ちた。プロットは複雑・深遠になっていくが初期の明るいユーモアや天才的なキャラクター造形は目立たなくなり、やや好みが分かれる感がある。

最終作『エドウィン・ドルードの謎』はウィルキー・コリンズなどの影響もあって、ミステリーのプロットを導入し、後期のディケンズの中でも特に陰鬱な雰囲気に包まれた野心的な作品であった。しかし、作者の死により全体の半ばほどを残してついに未完に終わった。そのため、犯人(正確には、表題人物の失踪の原因)は不明のままであり、さまざまな説が提唱されている。ただし、厳密には、殺人の謎解きは『バーナビー・ラッジ』で既に登場している。


●編集者ディケンズ

自ら『ハンフリー親方の時計』『一年じゅう』などの、自作の掲載雑誌の編集者を兼ねることも多く、エリザベス・ギャスケルやウィルキー・コリンズなどの逸材に作品発表の場を与えた。もっとも、編集者としては勝手に小説の内容に手を入れたり、などというワンマンぶりもよく知られている。例えば、ギャスケルが小説の中にディケンズの小説を登場させたときには、ギャスケルに無断でそのタイトルと著者名を仮名に変更している。

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主要作品
『ボズのスケッチ集』(Sketches by Boz, 1836)
『ピクウィック・クラブ』(The Pickwick Papers, 1836-37)
『オリヴァー・トゥイスト』(Oliver Twist, 1837-39)
『ニコラス・ニックルビー』(Nicholas Nickleby, 1838-39)
『骨董屋』(The Old Curiosity Shop, 1840-41)
『バーナビー・ラッジ』(Barnaby Rudge, 1841)
『マーティン・チャズルウィット』(Martin Chuzzlewit, 1843-44)
『クリスマス・キャロル』(A Christmas Carol, 1843)
『ドンビー父子』(Dombey and Son, 1846-48)
『デイヴィッド・コパフィールド』(David Copperfield, 1849-50)
『荒涼館』(Bleak House, 1852-53)
『ハード・タイムズ』(Hard Times, 1854)
『リトル・ドリット』(Little Dorrit, 1855-57)
『二都物語』(A Tale of Two Cities, 1859)
『大いなる遺産』(Great Expectations, 1860-61)
『互いの友』(Our Mutual Friend, 1864-65)
『エドウィン・ドルードの謎』(The Mystery of Edwin Drood, 1870)


●批評史

没後、そのストーリーの通俗性、あらすじの不自然さ、キャラクターの戯画化などのために、通俗作家として、芸術至上主義的な19世紀文壇からは批判された。確かに分冊販売、という発表形態(現代の連続テレビドラマを想起させる)のためもあって、ディケンズは人気の上下動を見て、もともと考えていた筋に執着せずに、時に強引とも思えるストーリーの変更を行った。特に『マーティン・チャズルウィット』や『ニコラス・ニクルビー』などではプロットの不自然さが目立つ。

しかし、一般大衆の人気がこうした批評で衰えることはなかった。プルースト、ドストエフスキーなどの小説家も愛読者として知られ、ツヴァイクやギッシング、チェスタトンなども優れた評伝を寄せている。トルストイはディケンズをシェイクスピア以上の作家であると評価しているほどである。近年ではエンターティナーとしてだけでなく、小説家としても作品の再評価が進んでおり、小説が映画、ドラマなどで映像化されることも多い。弱点こそあれ、現在の評価は、英国の国民作家というその正しい位置に、ほぼ復していると言える。ただし、その膨大な作品量も災いして、日本においては未だにディケンズの翻訳全集は(昭和初期の、舞台を日本に移した翻案に近い選集を除いて)存在しない、という状況にあることも事実である。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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