ポッシュ・モールへ

「風立ちぬ」(1) (かぜたちぬ)

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■ OEUVRE 堀辰雄「風立ちぬ」(1) ■
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 Le vent se le've, il faut tenter de vivre.
                       PAUL VALE'RY

   序曲

 それらの夏の日々、一面に薄《すすき》の生い茂った草原の中で、
お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの
一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方に
なって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばら
く私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色《あかね
いろ》を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の
方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけている
その地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の
描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって
果物を齧《か》じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。
そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、
木の葉の間からちらっと覗いている藍色《あいいろ》が伸びたり
縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと
倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにして
あった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って
行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとする
かのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は
私のするがままにさせていた。

  風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口を衝《つ》いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠《もた》
れているお前の肩に手をかけながら、口の裡《うち》で繰り返して
いた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。
まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに
草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、
パレット・ナイフでそんな草の葉を除《と》りにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧《あいまい》な微笑をした。


「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」
 或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、突然お前が
そう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。するとお前は、
そういう私の方を見ながら、すこし嗄《しゃが》れたような声で再び
口をきいた。

「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」
「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」
 私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を
自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の
梢が何んとはなしにざわめいているのに気を奪《と》られている
ような様子をしていた。

「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」
 私はとうとう焦《じ》れったいとでも云うような目つきで、お前の
方を見返した。
「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」
「だって仕方がないじゃないの」

 そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて微笑
《ほほえ》んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、
そしてその唇《くちびる》の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!

「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。あんなに私に何もかも
任せ切っていたように見えたのに……」と私は考えあぐねたような
恰好《かっこう》で、だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い
山径《やまみち》を、お前をすこし先きにやりながら、いかにも
歩きにくそうに歩いて行った。そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、
空気はひえびえとしていた。ところどころに小さな沢が食いこんだり
していた。突然、私の頭の中にこんな考えが閃《ひらめ》いた。
お前はこの夏、偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だった
ように、いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう
父をも数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、
素直に身を任せ切っているのではないだろうか? ……「節子! 
そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになる
だろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、
どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許《もと》
に今のままのお前でいるがいい……」そんなことを私は自分自身にだけ
言い聞かせながら、しかしお前の同意を求めでもするかのように、
いきなりお前の手をとった。お前はその手を私にとられるがままに
させていた。それから私達はそうして手を組んだまま、一つの沢の前に
立ち止まりながら、押し黙って、私達の足許に深く食いこんでいる
小さな沢のずっと底の、下生《したばえ》の羊歯《しだ》などの上まで、
日の光が数知れず枝をさしかわしている低い灌木《かんぼく》の隙間を
ようやくのことで潜り抜けながら、斑《まだ》らに落ちていて、
そんな木洩れ日がそこまで届くうちに殆んどあるかないか位になって
いる微風にちらちらと揺れ動いているのを、何か切ないような気持で
見つめていた。



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■ ノート ■
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 このコーナーは、本文の中にでてくるわからない言葉や、難しい
言葉の意味を解説するコーナーです。
 ときには図解もします。そのときはHP上にジャンプすれば図解説
が見られるようにします。

●Le vent se le've, il faut tenter de vivre.
直訳すると、「風が立った、生きなければならない」。それを堀辰雄
さんはうまく解釈して「風立ちぬ、いざ生きめやも。」としている。
ほんとに、うまいとしか言いようがない。


●PAUL VALE'RY
ポール・ヴァレリー。1871年10月30日 〜 1945年
フランスの詩人・思想家。 1871年南仏のセートに生まれる。モンペリエ
大学で法学を学び、パリで象徴派詩人のマラルメに師事した。 代表作
『レオナルド=ダ=ヴィンチ方法序説』『テスト氏との一夜』『魅惑』
『現代世界の展望』『芸術論集』『ヴァリエテ』など。


風立ちぬ

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