ポッシュ・モールへ

「風立ちぬ」(2) (かぜたちぬ)

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■ OEUVRE 堀辰雄「風立ちぬ」(2) ■
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 それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに
来た父と食事を共にしているのを見出した。お前は私の方にぎごち
なさそうに背中を向けていた。父の側にいることがお前に殆んど無
意識的に取らせているにちがいない様子や動作は、私にはお前をつ
いぞ見かけたこともないような若い娘のように感じさせた。

「たとい私がその名を呼んだにしたって……」と私は一人でつぶや
いた。「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。まるでも
う私の呼んだものではないかのように……」

 その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩からかえ
って来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらし
ていた。山百合が匂っていた。私はホテルの窓がまだ二つ三つあか
りを洩らしているのをぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧
がかかって来たようだった。それを恐れでもするかのように、窓の
あかりは一つびとつ消えて行った。そしてとうとうホテル中がすっ
かり真っ暗になったかと思うと、軽いきしりがして、ゆるやかに一
つの窓が開いた。そして薔薇色《ばらいろ》の寝衣《ねまき》らし
いものを着た、一人の若い娘が、窓の縁にじっと凭《よ》りかかり
出した。それはお前だった。……


 お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつ
けていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだに
はっきりと蘇《よみがえ》らせることが出来る。

 私は終日、ホテルに閉《と》じ籠《こも》っていた。そうして長
い間お前のために打棄《うっちゃ》って置いた自分の仕事に取りか
かり出した。私は自分にも思いがけない位、静かにその仕事に没頭
することが出来た。そのうちにすべてが他の季節に移って行った。
そしていよいよ私も出発しようとする前日、私はひさしぶりでホテ
ルから散歩に出かけて行った。

 秋は林の中を見ちがえるばかりに乱雑にしていた。葉のだいぶ少
くなった木々は、その間から、人けの絶えた別荘のテラスをずっと
前方にのり出させていた。菌類の湿っぽい匂いが落葉の匂いに入り
まじっていた。そういう思いがけない位の季節の推移が、――お前
と別れてから私の知らぬ間にこんなにも立ってしまった時間という
ものが、私には異様に感じられた。私の心の裡《うち》の何処かし
らに、お前から引き離されているのはただ一時的だと云った確信の
ようなものがあって、そのためこうした時間の推移までが、私には
今までとは全然異った意味を持つようになり出したのであろうか?
 ……そんなようなことを、私はすぐあとではっきりと確かめるま
で、何やらぼんやりと感じ出していた。
 私はそれから十数分後、一つの林の尽きたところ、そこから急に
打ちひらけて、遠い地平線までも一帯に眺められる、一面に薄《す
すき》の生い茂った草原の中に、足を踏み入れていた。そして私は
その傍らの、既に葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を
横たえた。其処は、その夏の日々、お前が絵を描いているのを眺め
ながら、私がいつも今のように身を横たえていたところだった。あ
の時には殆んどいつも入道雲に遮られていた地平線のあたりには、
今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびか
せた薄の上を分けながら、その輪廓《りんかく》を一つ一つくっき
りと見せていた。

 私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまう位、じっと目
に力を入れて見入っているうちに、いままで自分の裡に潜んでいた、
自然が自分のために極めて置いてくれたものを今こそ漸《や》っと
見出したと云う確信を、だんだんはっきりと自分の意識に上らせは
じめていた。……


風立ちぬ

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