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「風立ちぬ」(3) (かぜたちぬ)

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■ OEUVRE 堀辰雄「風立ちぬ」(3) ■
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   春

 三月になった。或る午後、私がいつものようにぶらっと散歩のつ
いでにちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門
をはいったすぐ横の植込みの中に、労働者のかぶるような大きな麦
稈帽《むぎわらぼう》をかぶった父が、片手に鋏《はさみ》をもち
ながら、そこいらの木の手入れをしていた。私はそういう姿を認め
ると、まるで子供のように木の枝を掻き分けながら、その傍に近づ
いていって、二言三言挨拶の言葉を交わしたのち、そのまま父のす
ることを物珍らしそうに見ていた。――そうやって植込みの中にす
っぽりと身を入れていると、あちらこちらの小さな枝の上にときど
き何かしら白いものが光ったりした。それはみんな莟《つぼみ》ら
しかった。……

「あれもこの頃はだいぶ元気になって来たようだが」父は突然そん
な私の方へ顔をもち上げてその頃私と婚約したばかりの節子のこと
を言い出した。
「もう少し好い陽気になったら、転地でもさせて見たらどうだろう
ね?」

「それはいいでしょうけれど……」と私は口ごもりながら、さっき
から目の前にきらきら光っている一つの莟がなんだか気になってな
らないと云った風をしていた。
「何処ぞいいところはないかとこの間うちから物色しとるのだがね
――」と父はそんな私には構わずに言いつづけた。「節子はFのサ
ナトリウムなんぞどうか知らんと言うのじゃが、あなたはあそこの
院長さんを知っておいでだそうだね?」

「ええ」と私はすこし上の空でのように返事をしながら、やっとさ
っき見つけた白い莟を手もとにたぐりよせた。
「だが、あそこなんぞは、あれ一人で行って居られるだろうか?」
「みんな一人で行っているようですよ」
「だが、あれにはなかなか行って居られまいね?」

 父はなんだか困ったような顔つきをしたまま、しかし私の方を見
ずに、自分の目の前にある木の枝の一つへいきなり鋏を入れた。そ
れを見ると、私はとうとう我慢がしきれなくなって、それを私が言
い出すのを父が待っているとしか思われない言葉を、ついと口に出
した。

「なんでしたら僕も一緒に行ってもいいんです。いま、しかけてい
る仕事の方も、丁度それまでには片がつきそうですから……」
 私はそう言いながら、やっと手の中に入れたばかりの莟のついた
枝を再びそっと手離した。それと同時に父の顔が急に明るくなった
のを私は認めた。

「そうしていただけたら、一番いいのだが、――しかしあなたには
えろう済まんな……」
「いいえ、僕なんぞにはかえってそう云った山の中の方が仕事がで
きるかも知れません……」

 それから私達はそのサナトリウムのある山岳地方のことなど話し
合っていた。が、いつのまにか私達の会話は、父のいま手入れをし
ている植木の上に落ちていった。二人のいまお互に感じ合っている
一種の同情のようなものが、そんなとりとめのない話をまで活気づ
けるように見えた。……

「節子さんはお起きになっているのかしら?」しばらくしてから私
は何気なさそうに訊《き》いてみた。
「さあ、起きとるでしょう。……どうぞ、構わんから、其処からあ
ちらへ……」と父は鋏をもった手で、庭木戸の方を示した。私はや
っと植込みの中を潜り抜けると、蔦《つた》がからみついて少し開
きにくい位になったその木戸をこじあけて、そのまま庭から、この
間まではアトリエに使われていた、離れのようになった病室の方へ
近づいていった。

 節子は、私の来ていることはもうとうに知っていたらしいが、私
がそんな庭からはいって来ようとは思わなかったらしく、寝間着の
上に明るい色の羽織をひっかけたまま、長椅子の上に横になりなが
ら、細いリボンのついた、見かけたことのない婦人帽を手でおもち
ゃにしていた。

 私がフレンチ扉《ドア》ごしにそういう彼女を目に入れながら近
づいて行くと、彼女の方でも私を認めたらしかった。彼女は無意識
に立ち上ろうとするような身動きをした。が、彼女はそのまま横に
なり、顔を私の方へ向けたまま、すこし気まり悪そうな微笑で私を
見つめた。

「起きていたの?」私は扉のところで、いくぶん乱暴に靴を脱ぎな
がら、声をかけた。
「ちょっと起きて見たんだけれど、すぐ疲れちゃったわ」
 そう言いながら、彼女はいかにも疲れを帯びたような、力なげな
手つきで、ただ何んということもなしに手で弄《もてあそ》んでい
たらしいその帽子を、すぐ脇にある鏡台の上へ無造作にほうり投げ
た。が、それはそこまで届かないで床の上に落ちた。私はそれに近
寄って、殆ど私の顔が彼女の足のさきにくっつきそうになるように
屈《かが》み込《こ》んで、その帽子を拾い上げると、今度は自分
の手で、さっき彼女がそうしていたように、それをおもちゃにし出
していた。

 それから私はやっと訊《き》いた。「こんな帽子なんぞ取り出し
て、何をしていたんだい?」
「そんなもの、いつになったら被《かぶ》れるようになるんだか知
れやしないのに、お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。
……おかしなお父様でしょう?」

「これ、お父様のお見立てなの? 本当に好いお父様じゃないか。
……どおれ、この帽子、ちょっとかぶって御覧」と私が彼女の頭に
それを冗談半分かぶせるような真似をしかけると、
「厭《いや》、そんなこと……」

 彼女はそう言って、うるさそうに、それを避けでもするように、
半ば身を起した。そうして言《い》い訣《わけ》のように弱々しい
微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶん痩《や》
せの目立つ手で、すこし縺《もつ》れた髪を直しはじめた。その何
気なしにしている、それでいていかにも自然に若い女らしい手つき
は、それがまるで私を愛撫でもし出したかのような、呼吸《いき》
づまるほどセンシュアルな魅力を私に感じさせた。そうしてそれは、
思わずそれから私が目をそらさずにはいられないほどだった……

 やがて私はそれまで手で弄《もてあそ》んでいた彼女の帽子を、
そっと脇の鏡台の上に載せると、ふいと何か考え出したように黙り
こんで、なおもそういう彼女からは目をそらせつづけていた。

「おおこりになったの?」と彼女は突然私を見上げながら、気づか
わしそうに問うた。
「そうじゃないんだ」と私はやっと彼女の方へ目をやりながら、そ
れから話の続きでもなんでもなしに、出し抜けにこう言い出した。
「さっきお父様がそう言っていらしったが、お前、ほんとうにサナ
トリウムに行く気かい?」

「ええ、こうしていても、いつ良くなるのだか分らないのですもの。
早く良くなれるんなら、何処へでも行っているわ。でも……」
「どうしたのさ? なんて言うつもりだったんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもなくってもいいから言って御覧。……どうしても言わな
いね、じゃ僕が言ってやろうか? お前、僕にも一緒に行けという
のだろう?」
「そんなことじゃないわ」と彼女は急に私を遮ろうとした。

 しかし私はそれには構わずに、最初の調子とは異って、だんだん
真面目になりだした、いくぶん不安そうな調子で言いつづけた。
「……いや、お前が来なくともいいと言ったって、そりあ僕は一緒
に行くとも。だがね、ちょっとこんな気がして、それが気がかりな
のだ。……僕はこうしてお前と一緒にならない前から、何処かの淋
しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい娘と二人きりの生活をしに
行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にもずっと前にそん
な私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋の話
さ、そんな山の中に私達は住めるのかしらと云って、あのときはお
前は無邪気そうに笑っていたろう? ……実はね、こんどお前がサ
ナトリウムへ行くと言い出しているのも、そんなことが知《し》ら
ず識《し》らずの裡《うち》にお前の心を動かしているのじゃない
かと思ったのだ。……そうじゃないのかい?」

 彼女はつとめて微笑《ほほえ》みながら、黙ってそれを聞いてい
たが、
「そんなこともう覚えてなんかいないわ」と彼女はきっぱりと言っ
た。それから寧《むし》ろ私の方をいたわるような目つきでしげし
げと見ながら、「あなたはときどき飛んでもないことを考え出すの
ね……」
 それから数分後、私達は、まるで私達の間には何事もなかったよ
うな顔つきをして、フレンチ扉《ドア》の向うに、芝生がもう大ぶ
青くなって、あちらにもこちらにも陽炎《かげろう》らしいものの
立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。

風立ちぬ

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