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九鬼周造「「いき」の構造」(02) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(02)

     一 序  説

 「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明《せんめい》し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出《みいだ》されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱わるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならぬ。
 まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。言語の内容たる意味と民族存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否《いな》、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の綜合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現われてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合《いろあい》を帯びていないはずはない。
 もとより、いわゆる自然現象に属する意味および言語は大なる普遍性をもっている。しかもなお、その普遍性たるや決して絶対的のものではない。例えばフランス語の ciel とか bois とかいう語を英語の sky, wood 、ドイツ語の Himmel, Wald と比較する場合に、その意味内容は必ずしも全然同一のものではない。これはその国土に住んだことのある者は誰しも直ちに了解することである。Le ciel est triste et beau の ciel と、 What shapes of sky or plain? の sky と、 〔Der bestirnte Himmel u:ber mir〕 の Himmel とは、国土と住民とによっておのおのその内容に特殊の規定を受けている。自然現象に関する言葉でさえ既にかようであるから、まして社会の特殊な現象に関する語は他国語に意味の上での厳密なる対当者を見出すことはできない。ギリシャ語のπολισ[#οに鋭アクセント。σはファイナルシグマ]にしてもεταιρα[#εに帯気。ιに鋭アクセント]にしても、フランス語の ville や courtisane とは異なった意味内容をもっている。またたとえ語源を同じくするものでも、一国語として成立する場合には、その意味内容に相違を生じてくる。ラテン語の caesar とドイツ語の Kaiser との意味内容は決して同一のものではない。
 無形的な意味および言語においても同様である。のみならず、或る民族の特殊の存在様態が核心的のものとして意味および言語の形で自己を開示しているのに、他の民族は同様の体験を核心的のものとして有せざるがために、その意味および言語を明らかに欠く場合がある。例えば、esprit という意味はフランス国民の性情と歴史全体とを反映している。この意味および言語は実にフランス国民の存在を予想するもので、他の民族の語彙《ごい》のうちに索《もと》めても全然同様のものは見出し得ない。ドイツ語では Geist をもってこれに当てるのが普通であるが、 Geist の固有の意味はヘーゲルの用語法によって表現されているもので、フランス語の esprit とは意味を異にしている。 geistreich という語もなお esprit の有する色合を完全にもっているものではない。もし、もっているとすれば、それは意識的に esprit の翻訳としてこの語を用いた場合のみである。その場合には本来の意味内容のほかに強《し》いて他の新しい色彩を帯びさせられたものである。否《いな》、他の新しい意味を言語の中に導入したものである。そうしてその新しい意味は自国民が有機的に創造したものではなくて、他国から機械的に輸入したものに過ぎないのである。英語の spirit も intelligence も wit もみな esprit ではない。前の二つは意味が不足しているし、 wit は意味が過剰である。なお一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱《いんうつ》な気候風土や戦乱の下《もと》に悩んだ民族が明るい幸《さち》ある世界に憬《あこが》れる意識である。レモンの花咲く国に憧《あこが》れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬《しょうけい》である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地《かのち》へ{1}」の憧憬、ニイチェのいわゆる 〔flu:gelbrausende Sehnsucht〕 はドイツ国民の斉《ひと》しく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenon の世界の措定《そてい》として形而上的《けいじじょうてき》情調をも取って来るのである。英語の longing またはフランス語の langueur, soupir, 〔de'sir〕 などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善《よ》く言い表わしている{2}」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。




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