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九鬼周造「「いき」の構造」(12) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(12)

 垂直の平行線と水平の平行線とが結合した場合は、模様として縦横縞が生じてくる。縦横縞は概して縦縞よりも横縞よりも「いき」でない。平行線の把握が容易の度を減じたからである。縦横縞のうちでも縞の荒いいわゆる碁盤縞《ごばんじま》は「いき」の表現であり得ることがある。しかしそのためには、我々の眼が水平の平行線の障碍《しょうがい》を苦にしないで、垂直の平行線の二元性をひとむきに追うことが必要である。碁盤縞がそのまま左右いずれへか回転して、垂直線と四十五度の角をなして静止した場合、すなわち、垂直の平行線と水平の平行線とが垂直性および水平性を失って共に斜《ななめ》に平行線の二系統を形成する場合、碁盤縞はその具有していた「いき」を失うのを常とする。何故《なぜ》ならば、眼はもはや、平行線の二元性を停滞なく追求することができないで、正面より直視する限りは、系統を異《こと》にする二様の平行線の交点のみを注視するようになるからである。なお、正方形の碁盤縞が長方形に変じた場合は格子縞《こうしじま》となる。格子縞はその細長さによってしばしば碁盤縞よりも「いき」である。
 縞の或る部分をかすり取る場合に、かすり取られた部分が縞に対して比較的微小なるときは、縞筋にかすりを交えた形となり、比較的強大なるときは、いわゆる絣《かすり》を生ずる。この種の模様が「いき」に対する関係は、抹殺を免れた縞の部分的存在がいかなる程度で平行線の無限的二元性を暗示し得るかに帰する。
 縞模様のうちでも放射状に一点に集中した縞は「いき」ではない。例えば轆轤《ろくろ》に集中する傘の骨、要《かなめ》に向って走る扇《おうぎ》の骨、中心を有する蜘蛛《くも》の巣、光を四方へ射出する旭日《きょくじつ》などから暗示を得た縞模様は「いき」の表現とはならない。「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。放射状の縞は中心点に集まって目的を達してしまっている。それ故に「いき」とは感ぜられない。もしこの種の縞が「いき」と感ぜられるときがあるとすれば、放射性が覆《おお》われて平行線であるかのごとき錯覚を伴う場合である。
 模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる。枡《ます》、目結《めゆい》、雷《らい》、源氏香図《げんじこうず》などの模様は、平行線として知覚されることが必ずしも不可能でない。殊に縦に連繋《れんけい》した場合がそうである。したがってまた「いき」である可能性をもっている。しかるに、籠目《かごめ》、麻葉《あさのは》、鱗《うろこ》などの模様は、三角形によって成立するために「いき」からは遠ざかって行く。なお一般に複雑な模様は「いき」でない。亀甲《きっこう》模様は三対の平行線の組合せとして六角形を示しているが、「いき」であるには煩雑《はんざつ》に過ぎる。万字《まんじ》は垂直線と水平線との結合した十字形の先端が直角状に屈折しているので複雑な感を与える。したがって模様としては万字繋《まんじつなぎ》は「いき」ではない。亜字《あじ》模様に至ってはますます複雑である。亜字は支那《シナ》太古の官服の模様として「取臣民背悪向善、亦取合離之義去就之義」といわれているが、勧善懲悪《かんぜんちょうあく》や合離去就《ごうりきょしゅう》があまり執拗《しつよう》に象徴化され過ぎている。直角的屈折を六回までもして「両己相背《りょうこあいそむ》」いている亜字には、瀟洒《しょうしゃ》なところは微塵《みじん》もない。亜字模様は支那趣味の悪い方面を代表して、「いき」とは正反対のものである。
 次に一般に曲線を有する模様は、すっきりした「いき」の表現とはならないのが普通である。格子縞に曲線が螺旋状《らせんじょう》に絡《から》み付けられた場合、格子縞は「いき」の多くを失ってしまう。縦縞が全体に波状曲線になっている場合も「いき」を見出すことは稀《まれ》である。直線から成る割菱《わりびし》模様が曲線化して花菱模様に変ずるとき、模様は「派手《はで》」にはなるが「いき」は跡形《あとかた》もなくなる。扇紋《おうぎもん》は畳扇《たたみおうぎ》として直線のみで成立している間は「いき」をもち得ないことはないが、開扇《ひらきおうぎ》として弧《こ》を描くと同時に「いき」は薫《かおり》をさえも留《とど》めない。また、奈良朝以前から見られる唐草《からくさ》模様は蕨手《わらびで》に巻曲した線を有するため、天平《てんぴょう》時代の唐花《からはな》模様も大体曲線から成立しているため、「いき」とは甚だ縁遠いものである。藤原時代の輪違《わちがい》模様、桃山《ももやま》から元禄《げんろく》へかけて流行した丸尽《まるづく》し模様なども同様に曲線であるために「いき」の条件に適合しない。元来、曲線は視線の運動に合致しているため、把握《はあく》が軽易で、眼に快感を与えるものとされている。またこの理由に基づいて、波状線の絶対美を説く者もある。しかし、曲線は、すっきりした、意気地ある「いき」の表現には適しない。「すべての温かいもの、すべての愛は円か楕円《だえん》かの形をもち、螺旋状その他の曲線を描いてゆく。冷たいもの、無関心なもののみが直線で稜《りょう》をもつ。兵隊を縦列に配置しないで環状に組立てたならば、闘争をしないで舞踏《ぶとう》をするであろう{1}」といった者がある。しかし、「いき」のうちには「慮外《りょがい》ながら揚巻《あげまき》で御座《ござ》んす」という、曲線では表わせない峻厳《しゅんげん》なところがある。冷たい無関心がある。「いき」の芸術形式がいわゆる「美的小{2}」と異なった方向に赴《おもむ》くものであることは、これによってもおのずから明白である。
 なお幾何学的模様に対して絵画的模様なるものは決して「いき」ではない。「金銀にて蝶々《ちょうちょう》を縫《ぬ》ひし野暮なる半襟《はんえり》をかけ」と『春告鳥』にもある。三筋の糸を垂直に場面の上から下まで描き、その側に三筋の柳の枝を垂らし、糸の下部に三味線《しゃみせん》の撥《ばち》を添え、柳の枝には桜の花を三つばかり交えた模様を見たことがある。描かれた内容自身から、また平行線の応用から推《お》して「いき」な模様でありそうであるが、実際の印象は何ら「いき」なところのない極めて上品なものであった。絵画的模様はその性質上、二元性をすっきりと言表わすという可能性を、幾何学的模様ほどにはもっていない。絵画的模様が模様として「いき」であり得ない理由はその点に存している。光琳《こうりん》模様、光悦《こうえつ》模様などが「いき」でないわけも主としてこの点によっている。「いき」が模様として客観化されるのは幾何学的模様のうちにおいてである。また幾何学的模様が真の意味の模様である。すなわち、現実界の具体的表象に規定されないで、自由に形式を創造する自由芸術の意味は、模様としては、幾何学的模様にのみ存している。
 模様の形式は形状のほかになお色彩の方面をもっている。碁盤縞が市松《いちまつ》模様となるのは碁盤の目が二種の異なった色彩によって交互に充填《じゅうてん》されるからである。しからば模様のもつ色彩はいかなる場合に「いき」であるか。まず、西鶴《さいかく》のいわゆる「十二色のたたみ帯」、だんだら染、友禅染《ゆうぜんぞめ》など元禄時代に起ったものに見られるようなあまり雑多な色取《いろどり》をもつことは「いき」ではない。形状と色彩との関係は、色調を異にした二色または三色の対比作用によって形状上の二元性を色彩上にも言表わすか、または一色の濃淡の差あるいは一定の飽和度《ほうわど》における一色が形状上の二元的対立に特殊な情調を与える役を演ずるかである。しからばその際用いられる色はいかなる色であるかというに、「いき」を表わすのは決して派手な色ではあり得ない{3}。「いき」の表現として色彩は二元性を低声に主張するものでなければならぬ。『春色恋白浪《しゅんしょくこいのしらなみ》』に「鼠色[#「鼠色」に傍点]の御召縮緬《おめしちりめん》に黄柄茶[#「黄柄茶」に傍点]の糸を以て細く小さく碁盤格子を織出《いだ》したる上着、……帯は古風な本国織《ほんごくおり》に紺[#「紺」に傍点]博多《はかた》の独鈷《とっこ》なし媚茶[#「媚茶」に傍点]の二本筋を織たるとを腹合せに縫ひたるを結び、……衣裳《いしょう》の袖口《そでぐち》は上着下着ともに松葉色[#「松葉色」に傍点]の様なる御納戸[#「御納戸」に傍点]の繻子《しゅす》を付け仕立も念を入《いれ》て申分なく」という描写がある。このうちに出てくる色彩は三つの系統に属している。すなわち、第一に鼠色、第二に褐色系統の黄柄茶《きがらちゃ》と媚茶《こびちゃ》、第三に青系統の紺《こん》と御納戸《おなんど》とである。また『春告鳥』に「御納戸[#「御納戸」に傍点]と媚茶[#「媚茶」に傍点]と鼠色[#「鼠色」に傍点]の染分けにせし、五分ほどの手綱染《たづなぞめ》の前垂《まえだれ》」その他のことを叙した後に「意気なこしらへで御座いませう」といってある。「いき」な色彩とは、まず灰色、褐色、青色の三系統のいずれにか属するものと考えて差支ないであろう。
 第一に、鼠色は「深川《ふかがわ》ねずみ辰巳《たつみ》ふう」といわれるように「いき」なものである。鼠色、すなわち灰色は白から黒に推移する無色感覚の段階である。そうして、色彩感覚のすべての色調が飽和の度を減じた究極は灰色になってしまう。灰色は飽和度の減少、すなわち色の淡さそのものを表わしている光覚である。「いき」のうちの「諦《あきら》め」を色彩として表わせば灰色ほど適切なものはほかにない。それ故に灰色は江戸時代から深川鼠、銀鼠《ぎんねず》、藍鼠《あいねず》、漆鼠《うるしねず》、紅掛鼠《べにかけねず》など種々のニュアンスにおいて「いき」な色として貴ばれた。もとより色彩だけを抽象して考える場合には、灰色はあまりに「色気」がなくて「いき」の媚態《びたい》を表わし得ないであろう。メフィストの言うように「生」に背《そむ》いた「理論」の色に過ぎないかもしれぬ。しかし具体的な模様においては、灰色は必ず二元性を主張する形状に伴っている。そうしてその場合、多くは形状が「いき」の質料因たる二元的媚態を表わし、灰色が形相因たる理想主義的非現実性を表わしているのである。




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