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九鬼周造「「いき」の構造」(17) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(17)

 {1}Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie(〔Oeuvres ine'dites〕, Naville, I, p. 208)。
 {2}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil IV, 〔Vom ho:heren Menschen〕.
 {3}Verlaine, 〔Art poe'tique〕.
 {4}ベッカー曰《いわ》く「美的なものの存在学は、美的(すなわち、芸術的)に創作する、また美的に享楽する現実存在の分析から展開されなければならぬ」(Oskar Becker, 〔Von der Hinfa:lligkeit des Scho:nen und der Abenteuerlichkeit des Ku:nstlers〕; 〔Jahrbuch fu:r Philosophie und pha:nomenologische Forschung〕, 〔Erga:nzungsband〕: Husserl-Festschrift, 1929, S. 40)
 {5}〔Paul Vale'ry〕, Eupalinos ou l'architecte, 〔15e e'd〕., p.104.
 {6}Jahrbuch der Musikbibliothek Peters, 1926, S. 67.
 {7}〔Lettre a` Titus Woyciechowski〕, le 3 octobre 1829.
 {8}高橋穣『心理学』改訂版、三二七―三二八頁参照。
 {9}Baudelaire, Le peintre de la vie moderne, IX, Le dandy. なおダンディズムに関しては左の諸書参照。
    Hazlitt, The dandy school, Examiner, 1828.
    Sieveking, Dandysm and Brummell. The Contemporary Review, 1912.
    Otto Mann, Der moderne Dandy, 1925.
 {10}Nietzsche, 〔Jenseits von Gut und Bo:se〕, IX, Was ist vornehm? 参照。
 {11}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil I, Von alten und jungen Weiblein.
 {12}α ποτ’ ειδεν ημων η ψυχη(Platon, Phaidros 249c).[#最初のαに帯気+鋭アクセント。ειδενのιに平息+曲アクセント。ημωνのηに帯気、ωに曲アクセント。単体のηに帯気。ψυχηのηに鋭アクセント]
 強調はημων[#ηに帯気、ωに曲アクセント]の上に置かれなければならない。ただしαναμνησισ[#最初のαに平息、3文字目のαに鋭アクセント、σはファイナルシグマ]はこの場合二様の意味で自己認識である。第一にはημων[#ηに帯気、ωに曲アクセント]の尖端的強調による民族的自我の自覚である。第二にはψυχη[#ηに鋭アクセント]と「意気」との間に原本的関係が存することに基づいて、自我の理想性が自己認識をすることである。
 {13}「いき」の語源の研究は、生[#「生」に傍点]、息[#「息」に傍点]、行[#「行」に傍点]、意気[#「意気」に傍点]の関係を存在学的に闡明することと相俟《あいま》ってなされなければならない。「生」が基礎的地平であることはいうまでもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的[#「生理的」に傍点]に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられている。したがって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花のもつれ酒、それを小意気に呑《の》みなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語形はそのことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺《うかが》へば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行《いき》」と発音される。「意気方よし」とは「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料している。それは精神的[#「精神的」に傍点]に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」および「行」は、「意気」の地平に高められたときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。




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