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九鬼周造「「いき」の構造」(03) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(03)

 「いき」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮りに同意義の語を欧洲語のうちに索めてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するものは、ほとんど悉《ことごと》くフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。一説によれば chicane の略で裁判沙汰を縺《もつ》れさせる「繊巧《せんこう》な詭計《きけい》」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chic の原形は schick である。すなわち schicken から来たドイツ語である。そうして geschickt と同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についての 〔e'le'gant〕 に近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもった chic として、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をも均《ひと》しく要素として包摂《ほうせつ》し、「野暮《やぼ》」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次に coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏《おんどり》が数羽の牝鶏《めんどり》に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的《びたいてき》」を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀に coquetterie に対して 〔Fa:ngerei〕という語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「いき」の徴表《ちょうひょう》の一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何《いかん》によっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚《こ》びる態度は coquetterie には相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスには 〔raffine'〕という語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をなすものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和《やまと》民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支《さしつかえ》ない。
 もとより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない。民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域においていわゆる「イデアチオン」を行《おこな》っても、それは単にその現象を包含する抽象的の類概念を得るに過ぎない。文化存在の理解の要諦《ようたい》は、事実としての具体性を害《そこな》うことなくありのままの生ける形態において把握することである。ベルクソンは、薔薇《ばら》の匂《におい》を嗅《か》いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。そうして薔薇の匂という一般的なものと回想という特殊なものとの連合によって体験を説明するのは、多くの国語に共通なアルファベットの幾字かを並べて或る一定の国語の有する特殊な音《おん》を出そうとするようなものであるといっている{3}。「いき」の形式化的抽象を行って、西洋文化のうちに存する類似の現象との共通点を求めようとするのもその類《たぐい》である。およそ「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に、我々はほかでもない universalia の問題に面接している。アンセルムスは、類《るい》概念を実在であると見る立場に基づいて、三位《さんみ》は畢竟《ひっきょう》一体の神であるという正統派の信仰を擁護した。それに対してロスケリヌスは、類概念を名目に過ぎずとする唯名論《ゆいめいろん》の立場から、父と子と聖霊の三位は三つの独立した神々であることを主張して、三神説の誹《そし》りを甘受した。我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種《しゅ》概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索《もと》めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得《えとく》」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである{4}。
 しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる構造をもっているか。我々はまず意識現象[#「意識現象」に傍点]の名の下《もと》に成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現[#「客観的表現」に傍点]を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならぬ。前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒《てんとう》するにおいては「いき」の把握は単に空《むな》しい意図に終るであろう。しかも、たまたま「いき」の闡明《せんめい》が試みられる場合には、おおむねこの誤謬《ごびゅう》に陥っている。まず客観的表現を研究の対象として、その範囲内における一般的特徴を索めるから、客観的表現に関する限りでさえも「いき」の民族的特殊性の把握に失敗する。また客観的表現の理解をもって直ちに意識現象の会得と見做《みな》すため、意識現象としての「いき」の説明が抽象的、形相的に流れて、歴史的、民族的に規定された存在様態を、具体的、解釈的に闡明することができないのである。我々はそれと反対に具体的な意識現象から出発しなければならぬ。

 {1}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil III, Von alten und neuen Tafeln.
 {2}Boutroux, La psychologie du mysticisme(La nature et l'esprit, 1926, p. 177).
 {3}Bergson, 〔Essai sur les donne'es imme'diates de la conscience〕, 〔20e e'd〕., 1921, p. 124.
 {4}「形相的」および「解釈的」の意義につき、また「本質」と「存在」との関係については左の諸書参照。
    Husserl, 〔Ideen zu einer reinen Pha:nomenologie〕, 1913, I, S. 4, S. 12.
    Heidegger, Sein und Zeit, 1927, I, S. 37 f.
    Oskar Becker, Mathematische Existenz, 1927, S. 1.
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