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九鬼周造「「いき」の構造」(04) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(04)

     二「いき」の内包的構造

 意識現象の形において意味として開示される「いき」の会得《えとく》の第一の課題として、我々はまず「いき」の意味内容を形成する徴表を内包的[#「内包的」に傍点]に識別してこの意味を判明[#「判明」に傍点]ならしめねばならない。ついで第二の課題として、類似の諸意味とこの意味との区別を外延的[#「外延的」に傍点]に明らかにしてこの意味に明晰[#「明晰」に傍点]を与えることを計らねばならない。かように「いき」の内包的構造と外延的構造とを均《ひと》しく闡明《せんめい》することによって、我々は意識現象としての「いき」の存在を完全に会得することができるのである。
 まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態[#「媚態」に傍点]」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる。近松秋江《ちかまつしゅうこう》の『意気なこと』という短篇小説は「女を囲う」ことに関している。そうして異性間の尋常ならざる交渉は媚態《びたい》の皆無を前提としては成立を想像することができない。すなわち「いきな事」の必然的制約は何らかの意味の媚態である。しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定《そてい》し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂《と》げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。永井荷風《ながいかふう》が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情《なさけ》無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎《もた》らされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦《ようたい》である。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す。菊池寛《きくちかん》の『不壊《ふえ》の白珠《しらたま》』のうちで「媚態」という表題の下に次の描写がある。「片山《かたやま》氏は……玲子《れいこ》と間隔をあけるやうに、なるべく早足に歩かうとした。だが、玲子は、そのスラリと長い脚で……片山氏が、離れようとすればするほど寄り添つて、すれずれに歩いた」。媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性として可能である。アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀《かめ》に近迫するがよい。しかし、ヅェノンの逆説を成立せしめることを忘れてはならない。けだし、媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたものでなければならない。「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者《あくしょうもの》、「無窮に」追跡して仆《たお》れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。
 「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地[#「意気地」に傍点]」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児《えどっこ》の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋《きっすい》」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消《まちびけし》、鳶者《とびのもの》は寒中でも白足袋《しろたび》はだし、法被《はっぴ》一枚の「男伊達《おとこだて》」を尚《とうと》んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳《たつみ》の侠骨《きょうこつ》」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法《でんぽう》」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競《くら》べ、意気地《いきじ》くらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋《いき》なゆかり」を象徴する助六《すけろく》は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻《あげまき》も髭《ひげ》の意休《いきゅう》に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立《きだて》が粋《すい》で」とはこの事である。かくして高尾《たかお》も小紫《こむらさき》も出た。「いき」のうちには溌剌《はつらつ》として武士道の理想が生き[#「生き」に傍点]ている。「武士は食わねど高楊枝《たかようじ》」の心が、やがて江戸者の「宵越《よいごし》の銭《ぜに》を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴《け》ころ」「不見転《みずてん》」を卑《いや》しむ凛乎《りんこ》たる意気となったのである。「傾城《けいせい》は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓《くるわ》の掟《おきて》であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初《かりそめ》にも物の直段《ねだん》を知らず、泣言《なきごと》を言はず、まことに公家大名《くげだいみょう》の息女《そくじょ》の如し」とは江戸の太夫《たゆう》の讃美であった。「五丁町《ごちょうまち》の辱《はじ》なり、吉原《よしわら》の名折れなり」という動機の下《もと》に、吉原の遊女は「野暮な大尽《だいじん》などは幾度もはねつけ」たのである。「とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆《じょろしゅ》の下紐《したひも》を結ぶの神の下心」によって女郎は心中立《しんじゅうだて》をしたのである。理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。
 「いき」の第三の徴表は「諦め[#「諦め」に傍点]」である。運命に対する知見に基づいて執着《しゅうじゃく》を離脱した無関心である。「いき」は垢抜《あかぬけ》がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒《しょうしゃ》たる心持でなくてはならぬ。この解脱《げだつ》は何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿《ほとけすがた》にあり乍《なが》ら、お前は鬼か清心様《せいしんさま》」という歎きは十六夜《いざよい》ひとりの歎きではないであろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗《な》めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴《じゅんぼく》な信頼を失ってさっぱりと諦《あきら》むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情《つれ》ないは唯《ただ》うつり気な、どうでも男は悪性者《あくしょうもの》」という煩悩《ぼんのう》の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻《ほころ》びて」という万法の運命とを蔵している。そうしてその上で「人の心は飛鳥川《あすかがわ》、変るは勤めのならひぢやもの」という懐疑的な帰趨《きすう》と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛《かわい》と思ふ人もなし、思うて呉《く》れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」という厭世的な結論とを掲げているのである。「いき」を若い芸者に見るよりはむしろ年増《としま》の芸者に見出すことの多いのはおそらくこの理由によるものであろう{1}。要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界《くがい》」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛《せちがら》い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍《てんたんむげ》の心である。「野暮は揉《も》まれて粋となる」というのはこの謂《いい》にほかならない。婀娜《あだ》っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯《しんし》な熱い涙のほのかな痕跡《こんせき》を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握《はあく》し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃《らんじゅくたいはい》の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否《いな》み得ない事実性を示している。そうしてまた、流転《るてん》、無常を差別相の形式と見、空無《くうむ》、涅槃《ねはん》を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。




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