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九鬼周造「「いき」の構造」(06) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(06)

     三「いき」の外延的構造

 前節において、我々は「いき」の包含する徴表を内包的に弁別して、「いき」の意味を判明ならしめたつもりである。我々はここに、「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰《めいせき》ならしめねばならない。
 「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手《はで》」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡《さかのぼ》って区分の原理を索《もと》める場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異《こと》にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在[#「人性的一般存在」に傍点]であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在[#「異性的特殊存在」に傍点]であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。さて、「渋味」という言葉はおそらく柿の味から来ているのであろう。しかるに柿は「渋味」のほかになお「甘味」をももっている。渋柿に対しては甘柿がある。それ故、「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。渋茶、甘茶、渋糟《しぶかす》、甘糟、渋皮、甘皮などの反対語の存在も、この対立関係を裏書する。しからば、これらの対立意味はどういう内容をもっているか。また、「いき」といかなる関係に立っているか。
 (一) 上品[#「上品」に傍点]―下品[#「下品」に傍点]とは価値判断に基づいた対自性の区別、すなわち物自身の品質上の区別である。言葉が表わしているように、上品とは品柄の勝《すぐ》れたもの、下品とは品柄の劣ったものを指している。ただし品《ひん》の意味は一様ではない。上品、下品とはまず物品に関する区別であり得る。ついで人事にもこの区別が適用される。「上品無寒門、下品無勢族」というときには、上品、下品は、人事関係、特に社会的階級性に関係したものとして見られている。歌麿《うたまろ》の『風俗三段娘』は、上品之部、中品之部、下品之部の三段に分れているが、当時の婦女風俗を上流、中流、下流の三に分って描いている。なお仏教語として品を呉音《ごおん》で読んで極楽浄土の階級性を表わす場合もあるが、広義における人事関係と見て差支ない。上品、下品の対立は、人事関係に基づいて更に人間の趣味そのものの性質を表明するようになり、上品とは高雅なこと、下品とは下卑《げび》たことを意味するようになる。
 しからば「いき」とこれらの意味とはいかなる関係に立っているであろうか。上品は人性的一般存在の公共圏に属するものとして、媚態とは交渉ないものと考えられる。『春色梅暦《しゅんしょくうめごよみ》』に藤兵衛の母親に関して「さも上品なるそのいでたち」という形容があるが、この母親は既に後家になっているのみならず「歳《とし》のころ、五十歳《いそじ》あまりの尼御前《あまごぜ》」である。そうして、藤兵衛の情婦お由《よし》の示す媚態とは絶好の対照をなしている。しかるにまた「いき」は、その徴表中に「意気地《いきじ》」と「諦め」とを有することに基づいて、趣味の卓越として理解される。したがって、「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無《うむ》という差異点を有するものと考えられる。また、下品はそれ自身媚態と何ら関係ないことは上品と同様であるが、ただ媚態と一定の関係に置かれやすい性質をもっている。それ故に、「いき」と下品との関係を考える場合には、共通点としては媚態の存在、差異点としては趣味の上下優劣を理解するのが普通である。「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である。そうしてその場合、しばしば、両者に共通の媚態そのものが趣味の上下によって異なった様態を取るものとして思惟《しい》される。たとえば「意気にして賤《いや》しからず」とか、または「意気で人柄がよくて、下卑た事と云《い》つたら是計《これっぱかり》もない」などといっている場合、「いき」と下品との関係が言表《いいあら》わされている。
 「いき」が一方に上品と、他方に下品と、かような関係に立っていることを考えれば、何ゆえにしばしば「いき」が上品と下品との中間者と見做《みな》されるかの理由がわかって来る。一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある。上品と「いき」とは共に有価値的でありながら或るものの有無によって区別される。その或るものを「いき」は反価値的な下品と共有している。それ故に「いき」は上品と下品との中間者と見られるのである。しかしながら、三者の関係をかように直線的に見るのは二次的に起ったことで、存在規定上、原本的ではない。
 (二) 派手[#「派手」に傍点]―地味[#「地味」に傍点]とは対他性の様態上の区別である。他に対する自己主張の強度または有無の差である。派手《はで》とは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。地味《じみ》とは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。前者は自己から出て他へ行く存在様態、後者は自己の素質のうちへ沈む存在様態である。自己から出て他へ行くものは華美を好み、花やかに飾るのである。自己のうちへ沈むものは飾りを示すべき相手をもたないから、飾らないのである。豊太閤《ほうたいこう》は、自己を朝鮮にまでも主張する性情に基づいて、桃山時代の豪華燦爛《ごうかさんらん》たる文化を致《いた》した。家康《いえやす》は「上を見な」「身の程《ほど》を知れ」の「五字七字」を秘伝とまで考えたから、家臣の美服を戒め鹵簿《ろぼ》の倹素を命じた。そこに趣味の相違が現われている。すなわち、派手、地味の対立はそれ自身においては何ら価値判断を含んでいない非価値的のものである。対立の意味は積極的と消極的との差別に存している。
 「いき」との関係をいえば、派手は「いき」と同じに他に対して積極的に媚態を示し得る可能性をもっている。「派手な浮名が嬉しうて」の言葉でもわかる。また「うらはづかしき派手姿も、みなこれ男を思ふより」というときにも、派手と媚態との可能的関係が示されている。しかし、派手の特色たるきらびやかな衒《てら》いは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。江戸褄《えどづま》の下から加茂川染の襦袢《じゅばん》を見せるというので「派手娘江戸の下より京を見せ」という句があるが、調和も統一も考えないで単に華美濃艶《かびのうえん》を衒う「派手娘」の心事と、「つやなし結城《ゆうき》の五ほんて縞《じま》、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者《すいしゃ》の意中とには著しい隔《へだた》りがある。それ故に派手は品質の検校《けんこう》が行われる場合には、往々趣味の下劣が暴露されて下品の極印《ごくいん》を押されることがある。地味は原本的に消極的対他関係に立つために「いき」の有する媚態をもち得ない。その代りに樸素《ぼくそ》な地味は、一種の「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。地味が品質の検校を受けてしばしば上品の列に加わるのは、さびた心の奥床《おくゆか》しさによるのである。



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