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九鬼周造「「いき」の構造」(07) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(07)

 (三) 意気[#「意気」に傍点]―野暮[#「野暮」に傍点]は異性的特殊性の公共圏内における価値判断に基づいた対自性の区別である。もとよりその成立上の存在規定が異性的特殊性である限り、「いき」のうちには異性に対する措定《そてい》が言表されている。しかし、「いき」が野暮と一対《いっつい》の意味として強調している客観的内容は、対他性の強度または有無《うむ》ではなく、対自性に関する価値判断である。すなわち「いき」と野暮との対立にあっては、或る特殊な洗練の有無が断定されているのである。「いき」はさきにもいったように字通りの「意気」である。「気象」である。そうして「気象の精粋」の意味とともに、「世態人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜《あかぬけ》していること」を意味してきている。野暮は「野夫《やぶ》」の音転であるという。すなわち通人粋客に対して、世態に通じない、人情を解しない野人《やじん》田夫《でんぷ》の意である。それより惹《ひ》いて、「鄙《ひな》びたこと」「垢抜のしていないこと」を意味するようになってきた。『春告鳥《はるつげどり》』のうちに「生質野夫《やぼ》にて世間の事をすこしも知らず、青楼妓院《せいろうぎいん》は夢にも見たる事なし。されば通君子《つうくんし》の謗《そし》りすくなからず」という言葉がある。また『英対暖語《えいたいだんご》』のうちに「唄女《はおり》とかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」という言葉がある。
 もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価《あたい》する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択《えら》ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。しかしながら、文化的存在規定を内容とする一対の意味が、一は肯定的に言表され、他は否定的の言葉を冠している場合には、その成立上における原本性および非原本性に関して断定を下すことができるとともに、その意味内容の成立した公共圏内における相対的な価値判断を推知することができる。合理、不合理という語は、理性を標準とする公共圏内でできた語である。信仰、無信仰は、宗教的公共圏を成立規定にもっている。そうして、これらの語はその基礎附けられている公共圏内にあっては明らかに価値判断を担《にな》っている。さて、意気といい粋といい、いずれも肯定的にいい表わされている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気《ぶいき》と不粋《ぶすい》とを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる。玄人《くろうと》から見れば素人《しろうと》は不粋である。自分に近接している「町風《まちふう》」は「いき」として許されるが、自分から疎隔している「屋敷風」は不意気である。うぶな恋も野暮である。不器量な女の厚化粧も野暮である。「不粋なこなさんぢや有るまいし、色里の諸わけをば知らぬ野暮でもあるまいし」という場合にも、異性的特殊性の公共圏内における価値判断の結果として、不粋と野暮とによって反価値性が示されている。
 (四) 渋味[#「渋味」に傍点]―甘味[#「甘味」に傍点]は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。渋味は消極的対他性を意味している。柿が肉の中《うち》に渋味を蔵するのは烏《からす》に対して自己を保護するのである。栗が渋い内皮をもっているのは昆虫類に対する防禦《ぼうぎょ》である。人間も渋紙で物を包んで水の浸入に備えたり、渋面《じゅうめん》をして他人との交渉を避けたりする。甘味はその反対に積極的対他性を表わしている。甘える者と甘えられる者との間には、常に積極的な通路が開けている。また、人に取入ろうとする者は甘言を提供し、下心ある者は進んで甘茶を飲ませようとする。
 対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担《にな》っていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。「しぶかはにまあだいそれた江戸のみづ」の渋皮は反価値的のものである。それに反して、しぶうるかという場合、うるかは味の渋さを賞するものであるから、渋味は有価値的意味を表現している。甘味についても、たとえば、茶のうちでは玉露に「甘い優美な趣味」があるとか、政《まつりごと》よろしきを得れば天が甘露を降らすとか、または快く承諾することを甘諾《かんだく》といったりする時には、甘味は有価値的意味をもっている。しかるに、「あまっちょ」「甘ったるい物の言い方」「甘い文学」などいう場合には、甘味によって明らかに反価値性が言表されている。
 さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。荷風は『歓楽』の中で、「其の土地では一口に姐《ねえ》さんで通るかと思ふ年頃の渋いつくりの女」に出逢《であ》って、その女が十年前に自分と死のうと約束した小菊《こぎく》という芸者であったことを述べている。この場合、その女のもっていた昔の甘味は否定されて渋味になっているのである。渋味はしばしば派手の反対意味として取扱われる。しかしながらそれは渋味の存在性を把握するに妨害をする。派手の反対意味としては地味がある。渋味をも地味をも斉《ひと》しく派手に対立させることによって、渋味と地味とを混同する結果を来たす。渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶《つや》がある。
 しからば、渋味および甘味は「いき」とはいかなる関係に立っているか。三者とも異性的特殊存在の様態である。そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。この意味において、甘味と「いき」と渋味とは直線的関係に立っている。そうして「いき」は肯定より否定への進路の中間に位《くらい》している{1}。
 独断の「甘い」夢が破られて批判的知見に富んだ「いき」が目醒《めざ》めることは、「いき」の内包的構造のところで述べた。また、「いき」が「媚態のための媚態」もしくは「自律的遊戯」の形を取るのは「否定による肯定」として可能であることも言った。それは甘味から「いき」への推移について語ったにほかならない。しかるに、更に否定が優勢を示して極限に近づく時には「いき」は渋味に変ずるのである。荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢《うたざわ》の或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟《ひっきょう》、清元《きよもと》などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞《くにさだ》の女が清長《きよなが》や歌麿《うたまろ》から生れたのはこういう径路《けいろ》を取っている。




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