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九鬼周造「「いき」の構造」(09) (いきのこうぞう)

九鬼周造「「いき」の構造」(09)

     四「いき」の自然的表現

 今までは意識現象としての「いき」を考察してきた。今度は客観的表現の形を取った「いき」を、理解さるべき存在様態と見てゆかねばならぬ。意味としての「いき」の把握《はあく》は、後者を前者の上に基礎附け、同時に全体の構造を会得する可能性に懸《かか》っている。さて「いき」の客観的表現は、自然形式[#「自然形式」に傍点]としての表現、すなわち自然的表現と、芸術形式[#「芸術形式」に傍点]としての表現、すなわち芸術的表現との二つに区別することができる。この両表現形式がはたして截然《せつぜん》たる区別を許すかの問題{1}、すなわち自然形式とは畢竟《ひっきょう》芸術形式にほかならないのではないかという問題は極めて興味ある問題であるが、今はその問題には触れずに、単に便宜上、通俗の考え方に従って自然形式と芸術形式との二つに分けてみる。まず自然形式としての表現について考えてみよう。自然形式といえば、いわゆる「象徴的感情移入」の形で自然界に自然象徴[#「自然象徴」に傍点]を見る場合、たとえば柳や小雨を「いき」と感ずるごとき場合をも意味し得るが、ここでは特に「本来的感情移入」の範囲に属する身体的発表[#「身体的発表」に傍点]を自然形式と考えておく。
 身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚[#「聴覚」に傍点]としてはまず言葉づかい、すなわちものの言振《いいぶ》りに表われる。「男へ対しそのものいひは、あまえずして色気あり」とか「言《こと》の葉草《はぐさ》も野暮ならぬ」とかいう場合がそれであるが、この種の「いき」は普通は一語の発音の仕方、語尾の抑揚などに特色をもってくる。すなわち、一語を普通よりもやや長く引いて発音し、しかる後、急に抑揚を附けて言い切ることは言葉遣《ことばづかい》としての「いき」の基礎をなしている。この際、長く引いて発音した部分と、急に言い切った部分とに、言葉のリズムの上の二元的対立が存在し、かつ、この二元的対立が「いき」のうちの媚態《びたい》の二元性の客観的表現と解される。音声としては、甲走《かんばし》った最高音よりも、ややさびの加わった次高音の方が「いき」である。そうして、言葉のリズムの二元的対立が次高音によって構成された場合に、「いき」の質料因と形相因とが完全に客観化されるのである。しかし、身体的発表としての「いき」の表現の自然形式は視覚[#「視覚」に傍点]において最も明瞭なかつ多様な形で見られる{2}。
 視覚に関する自然形式としての表現とは、姿勢、身振《みぶり》その他を含めた広義の表情と、その表情の支持者たる基体とを指していうのである。まず、全身に関しては、姿勢を軽く崩す[#「姿勢を軽く崩す」に傍点]ことが「いき」の表現である。鳥居清長《とりいきよなが》の絵には、男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味において、またあらゆるニュアンスにおいて、この表情が驚くべき感受性をもって捉《とら》えてある。「いき」の質料因たる二元性としての媚態は、姿体の一元的平衡《へいこう》を破ることによって、異性へ向う能動性および異性を迎うる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現実的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加えて、放縦なる二元性の措定《そてい》を妨止《ぼうし》する。「白楊の枝の上で体をゆすぶる」セイレネスの妖態《ようたい》や「サチロス仲間に気に入る」バックス祭尼の狂態、すなわち腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。姿勢の相称性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移において、非現実的理想主義を自覚することが、「いき」の表現としては重要なことである。
 なお、全身に関して「いき」の表現と見られるのはうすものを身に纏う[#「うすものを身に纏う」に傍点]ことである。「明石《あかし》からほのぼのとすく緋縮緬《ひぢりめん》」という句があるが、明石縮《あかしちぢみ》を着た女の緋の襦袢《じゅばん》が透いて見えることをいっている。うすもののモティーフはしばしば浮世絵にも見られる。そうしてこの場合、「いき」の質料因と形相因との関係が、うすものの透かしによる異性への通路開放と、うすものの覆《おお》いによる通路封鎖として表現されている。メディチのヴェヌスは裸体に加えた両手の位置によって特に媚態を言表しているが、言表の仕方があまりにあからさまに過ぎて「いき」とはいえない。また、巴里《パリ》のルヴューに見る裸体が「いき」に対して何らの関心をももっていないことはいうまでもない。
 「いき」な姿としては湯上り姿[#「湯上り姿」に傍点]もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣《ゆかた》を無造作《むぞうさ》に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完《まっと》うしている。「いつも立寄る湯帰りの、姿も粋な」とは『春色辰巳園《しゅんしょくたつみのその》』の米八《よねはち》だけに限ったことではない。「垢抜《あかぬけ》」した湯上り姿は浮世絵にも多い画面である。春信《はるのぶ》も湯上り姿を描いた。それのみならず、既に紅絵《べにえ》時代においてさえ奥村政信《おくむらまさのぶ》や鳥居清満《とりいきよみつ》などによって画かれていることを思えば、いかに特殊の価値をもっているかがわかる。歌麿《うたまろ》も『婦女相学十躰《ふじょそうがくじったい》』の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかった。しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。
 表情の支持者たる基体についていえば、姿が細っそり[#「姿が細っそり」に傍点]して柳腰であることが、「いき」の客観的表現の一と考え得る。この点についてほとんど狂信的な信念を声明しているのは歌麿である。また、文化文政《ぶんかぶんせい》の美人の典型も元禄《げんろく》美人に対して特にこの点を主張した。『浮世風呂』に「細くて、お綺麗《きれい》で、意気で」という形容詞の一聯がある。「いき」の形相因は非現実的理想性である。一般に非現実性、理想性を客観的に表現しようとすれば、いきおい細長い形を取ってくる。細長い形状は、肉の衰えを示すとともに霊の力を語る。精神自体を表現しようとしたグレコは、細長い絵ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としている。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもっている。「いき」が霊化された媚態である限り、「いき」な姿は細っそりしていなくてはならぬ。
 以上は全身に関する「いき」であったが、なお顔面に関しても、基体としての顔面と、顔面の表情との二方面に「いき」が表現される。基体としての顔面、すなわち顔面の構造の上からは、一般的にいえば丸顔よりも細おもて[#「細おもて」に傍点]の方が「いき」に適合している。「当世顔は少し丸く」と西鶴《さいかく》が言った元禄の理想の豊麗《ほうれい》な丸顔に対して、文化文政が細面《ほそおもて》の瀟洒《しょうしゃ》を善《よ》しとしたことは、それを証している。そうして、その理由が、姿全体の場合と同様の根拠に立っているのはいうまでもない。
 顔面の表情が「いき」なるためには、眼と口と頬とに弛緩と緊張[#「眼と口と頬とに弛緩と緊張」に傍点]とを要する。これも全身の姿勢に軽微な平衡《へいこう》破却《はきゃく》が必要であったのと同じ理由から理解できる。眼[#「眼」に傍点]については、流眄《りゅうべん》が媚態の普通の表現である。流眄、すなわち流し目とは、瞳《ひとみ》の運動によって、媚《こび》を異性にむかって流し遣《や》ることである。その様態化としては、横目、上目《うわめ》、伏目《ふしめ》がある。側面に異性を置いて横目を送るのも媚であり、下を向いて上目ごしに正面の異性を見るのも媚である。伏目もまた異性に対して色気ある恥かしさを暗示する点で媚の手段に用いられる。これらのすべてに共通するところは、異性への運動を示すために、眼の平衡を破って常態を崩すことである。しかし、単に「色目」だけでは未《ま》だ「いき」ではない。「いき」であるためには、なお眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦《あきら》めと凛乎《りんこ》とした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ。口[#「口」に傍点]は、異性間の通路としての現実性を具備していることと、運動について大なる可能性をもっていることとに基づいて、「いき」の表現たる弛緩《しかん》と緊張《きんちょう》とを極めて明瞭な形で示し得るものである。「いき」の無目的な目的は、唇《くちびる》の微動のリズムに客観化される。そうして口紅は唇の重要性に印を押している。頬[#「頬」に傍点]は、微笑の音階を司《つかさど》っている点で、表情上重要なものである。微笑としての「いき」は、快活な長音階よりはむしろやや悲調を帯びた短音階を択《えら》ぶのが普通である。西鶴は頬の色の「薄花桜」であることを重要視しているが、「いき」な頬は吉井勇《よしいいさむ》が「うつくしき女なれども小夜子《さよこ》はも凄艶《せいえん》なれば秋にたとへむ」といっているような秋の色を帯びる傾向をもっている。要するに顔面における「いき」の表現は、片目を塞《ふさ》いだり、口部を突出させたり、「双頬《そうきょう》でジャズを演奏する」などの西洋流の野暮さと絶縁することを予件としている。




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