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九鬼周造「外来語所感」(02) (がいらいごしょかん)

九鬼周造「外来語所感」(02)

 第三の反対理由は言語の世界にも適者生存の自然淘汰《とうた》が行われている、人為的な強制などでは、言語の改廃は困難であるというのである。ガラスだのベルだのコップだのは生活上の必要から言馴れてもうすっかり落ついてしまったではないか。ジュバン(襦袢)などになると完全に時効にかかってしまって外来臭を脱している。もとはポルトガル語だといい聞かされて初めてそうかと知るくらいのものである。便利が中心であるから外来語でもほっておけば完全に同化されてしまう。また社会民衆は賢明であるから不用な外来語は時の経過と共に廃滅する。こういうのである。この言語学上の事実は私もある程度において認めはするが、この事実を理由として外来語の統制に反対する自由主義の立場に賛意を表することは私にはできない。
 日本語を欧米の侵入に対して防禦することを私は現代の日本人の課題の一つと考えたい。満洲へ軍隊を送るばかりが国防ではない。挙国一致して日本語の国民性を擁護すべきであろう。故松田文相の外来語排撃の旗印は文教の府の首班として確かに卓見であった。我々はしかし文部省あたりの調査や審議に任せて安心しているわけにはゆかない。外来語の整理、統制の問題はかくべつ調査や審議を要する問題ではない。要はただ実行にある。社会民衆の恣意《しい》に任せて安堵《あんど》しているのも間違っている。民衆は賢明なところもあるが愚昧《ぐまい》なところもある。用もないのにむやみに外来語を使いたがる稚気と、僅《わずか》ばかりの外国語の知識をやたらにふりまわしたがる衒気《げんき》とが民衆にないとは決していえない。
 映画アーベントなどという広告をよく新聞に見る。アーベントという言葉を用いたのは明治の終りか大正の初めころ、帝大の山上御殿ではじめて開かれた哲学会のカント・アーベントあたりが最初であったろうと思う。カント・アーベントには相当に意味があるが、映画アーベントに至っては笑止の極みである。そのうちに映画のソアレエなどといい出してフランス風を吹かせるようになるかもしれない。「喫茶店」が「サロン・ド・テー」になりかけているけはいもみえる。花道へ現れた紙屋治兵衛に「モダンボーイ」と呼びかける弥次馬の声などもただ笑って聞いてばかりもいられないような気がする。「なが子」が「ロング」、「おもん」が「ゲート」、「小栄竜」が「スモール・プロスペラス・ドラゴン」などと名乗って嬉しそうにしているのは罪がなくていいが、新聞に堂々と「サタデーサーヴィス」「雛《ひな》人形セット」「呉服ソルド市」「今シーズン第一の名画」「愛とユーモアの明るい避暑地」「このチャンスを逃さず本日只今《ただいま》申込まれよ」などと広告が出ているのを見ると何だか人を馬鹿にしているような気がして私は腹立たしいほど嫌悪を感じる。いったい誰れに向って広告をしているのだ。お互に日本人ではないかといいたくなる。いわんや新聞に「ブック・レヴュー」とか「ホーム・セクション」とかいう欄が設けられているのは私には全く不可解である。
 如何《いか》に外来語が好んで用いられるかは、最近の新聞記事に「スラムのブルジョア、ルンペン群中のクイーン」と書いてあった一例によってだけでもわかる。また仮りに『文藝春秋』五月号を開いてみても大臣または大臣級の人たちが「労働者はない、しかるにメンタルの働き手というものは余っているという訳だな。それで高等教育と国の事情とがマッチしないですな」とか「高橋さんの性格の長所たりし恬淡《てんたん》がスプールロース・フェルローレン!〔あとかたもなく消えてしまった〕 実に意外の感があった」などといっている。これらは何の必要があって外国語を用いるのか私は了解に苦しむのである。
 欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和《やまと》言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾《しきいき》から駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金《にせがね》を根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
 西洋哲学の術語などは明治以来諸先輩の努力によって殆どすべて翻訳され尽している。範疇《はんちゅう》、当為、止揚、妥当などというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。哲学上の言葉は概念的抽象的であるからある意味ではかえって翻訳とその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳が成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳がうまくいかないことは事実である。
 生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気の情調を満喫していて他国語への翻訳が困難であるには相違ないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払われなくてはならない。知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味ある訳語が出来てくると信ずる。
 日本人は一日も早く西洋崇拝を根柢から断絶すべきである。殊《こと》に文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃に奮闘し、社会の趣味を高きへ導くことを心掛けなければならない。




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