国枝史郎「一枚絵の女」(02) (いちまいえのおんな)

国枝史郎「一枚絵の女」(2)

        二

「あ」
 とおきたは口の中で叫び、急いで店先きまで小走って行き、その新発意を見送った。
 新発意は幾度となく振り返った。
(またあのお方が通って行く。……似ている。……いいえ酷似《そっくり》だ! ……あのお方に相違ない。……では妾はここにはいられぬ。……妾の身分があの人によって。……でもどうしてあのお方がご出家なんかしたのであろう?)
 恋しい人……憎い人……秘密を知られた人……弥兵衛様……今は新発意――その人のことが彼女の心を、この日一日支配した。

「おきた、わしはもう駄目だ。わしはもう江戸にはいられぬ」
 いつもの船宿へおきたを呼び出し、貝塚三十郎はそう云った。おきたの心を喜ばせるため、幾度となく辻斬りをし、金を取ったことを感付かれ、手が廻ったということを、云いにくそうに三十郎は云った。
 おきたは黙って聞いていたが、
「妾も江戸を売りまする。ご一緒に連れて行ってくださりませ」
 と云った。
 その後も例の新発意が、絶えず店の前を通ることや、絵双紙屋で自分の一枚絵を買っていた姿を見かけたことなどを、心のうちで思いながら、そうおきたは云ったのであった。

 奥州方面へ落ちようとして、三十郎とおきたとは夏の夜の、家の軒へ蚊柱の立つ時刻に、千住の宿を出外れた。
 三十郎は満足であった。明和年間の代表的美人、春信によって一枚絵に描かれ、江戸市民讃仰のまとになったところの、笠森お仙や公孫樹《いちょうのき》のお藤、それにも負けない美人として、現代一流の浮世絵師によって、四季さまざまに描かれて、やはり一枚絵として売り出され、諸人讃美のまとになっている、難波屋おきたと駈け落ちをする。
 もうすっかり満足していた。
 おきたも満足しているのであった。
 尋常の人とは夫婦になれない、そういう身分の自分であった。それが微禄とはいいながら、徳川直参の若い武士と、夫婦になることが出来るのである。
(茶汲み女として囃《はや》されても、そんな人気はひとしきり、妾の素性が知れようものなら、あべこべに爪はじきされるだろう。それより好きな人と他国へ落ちて、安穏に一緒にくらした方が……)
 どんなによいかと思われるのであった。
 宿を出外れると松並木で、人通りなどはほとんどなく、夜啼き蝉の滲み入るような声が、半かけの月の光の中で、短い命を啼いていた。
 その時背後《うしろ》から足音がした。
 あたりに気を置く落人《おちゅうど》であった。そっとおきたは振り返って見た。
 網代の笠を傾けて、おきたを見つめながら例の新発意がすぐの背後《うしろ》を歩いて来ていた。
「あ」
 おきたは三十郎へ縋った。
「あの坊主を殺して……そうでなければ……妾は……お前とは……添われぬ! ……添われぬ! ……」
 抜き打ちにしようと三十郎は、刀の柄へ手をかけた。
(わしは殺される、わしは殺される!)
 と、そのとたんに源空は観念した。
 するとその瞬間に過去のことが、一時に彼の脳裡に浮かんだ。



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