国枝史郎「大捕物仙人壺」(10) (おおとりものせんにんつぼ)
国枝史郎「大捕物仙人壺」(10)
10
「娘御、お怪我はなかったかな」
「あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……」
「おおさようか、それはよかった。……や、ここに仆《たお》れているのは?」
こう云いながら若侍はトン公の方へ寄って行った。
「妾《わたし》の知己《しりあい》でございます。もしや死んだのではございますまいか?」
お錦は不安に耐えないように、トン公の上へ身をかがめた。
若侍は脈を見たが、「大丈夫でござる。活きております。どうやら気絶をしたらしい」
間もなくトン公は正気になった。
「済まねえ済まねえ、眠っちゃった。ナーニもう大丈夫だ。だが畜生頭が痛え」
負け惜しみの強いトン公は、気絶したとは云わなかった。
二人を救った若侍は小堀義哉《こぼりよしや》というもので、五百石の旗本の次男、小さい時から芸事が好き、それで延寿《えんじゅ》の門に入り、五年経たぬ間に名取となり、今では立派な師匠株、従って父親とはソリが合わず、最近家を出て一家を構え、遊芸三昧に日を暮らしている結構な身分の者であったが今日も清元のおさらい[#「おさらい」に傍点]に行き、遅くなっての帰路であった。
「またさっき[#「さっき」に傍点]の悪者どもが盛り返して来ないものでもない、瓦町《かわらまち》まで送りましょう」
義哉は親切にこう云った。
で三人は歩くことにした。
「爺つあん」の住居へ着いたのはそれから間もなくのことであったが、別れようとする若侍をお願いしてお錦は引き止めて置いて、家の内へ入って行った。
ガランとした古びた家であった。
そうして「爺つあん」の寝ている部屋は、その家の一番奥にあった。
「「爺つあん」、紫錦《しきん》さんを連れて来たよ」
トン公はこう云って入って行った。
「トン公、どうも有難う」
こう云いながら「爺つあん」は布団の上へ起き上った。そうしてつつましく[#「つつましく」に傍点]膝をついたお錦の顔をじっと見た。
と、みるみる「爺つあん」の眼から大粒の涙が零れ出た。非常に感動したらしい。
「おかしな爺さんだよ、どうしたんだろう?」
お錦はひどく[#「ひどく」に傍点]吃驚《びっくり》した。
勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? 妾《わたし》をどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
トン公は云いすてて出て行った。
後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけ[#「そむけ」に傍点]て黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴《どな》ったが、でもやっぱり黙っていた。
しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
確信のあるらしい調子であった。
で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。
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