国枝史郎「大捕物仙人壺」(11) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(11)

11

「紫錦《しきん》」と「爺《とっ》つあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物《できもの》が出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものがある。他でもねえこの箱だ」
 布団の下から取り出したのは、神代杉《じんだいすぎ》の手箱であった。
「これをお前に遣ることにする。大事にしまっておくがいい。そうして俺が死んだ後で、窃《こっそ》りひらいて見るがいい。お前を幸福《しあわせ》にしようからな」
 ここでちょっと憂鬱になったが、
「そうだ、そうしてこの箱をひらくと、お前の本当の素性もわかる。もっともそいつ[#「そいつ」に傍点]はかえってお前を不幸《ふしあわせ》にするかもしれねえがな。……だが[#「だが」に傍点]それも仕方がねえ」
「爺つあん」はしばらく黙り込んだ。
 それからソロソロと手を延ばすと、指先を畳目へ差し込んだ。それからじっと[#「じっと」に傍点]聞き耳を澄まし四辺《あたり》の様子をうかがってから、ヒョイと畳目から指を抜いた。
「これを」と「爺つあん」は囁くように云った。「早くお取りこの鍵を!」
 見ると「爺つあん」は指先に小さい鍵を摘まんでいた。
「箱も大事だが鍵も大事だ。鍵の方がいっそ[#「いっそ」に傍点]大事だ。だから別々にしまって置くがいい。この鍵でなければこの箱は、どんなことをしても開かないんだからな、……ところで紫錦よ気をおつけ。敵があるからな、敵があるからな。……で、もうこれで用はおえた。気をつけてお帰り、気を付けてな」
 そこでお錦は二品を貰い、急いで部屋を抜け出した。
 送るというのをことわって[#「ことわって」に傍点]、義哉《よしや》と一緒に帰ることにした。
 森然《しん》とふけた夜の町を、二人は並んで歩いて行った。
 義哉から見たお錦という女は、どうにも不思議な女であった。華美な身装、濃艶《のうえん》な縹緻、それから推《お》すと良家の娘で、令嬢と云ってもよい程であったが、その大胆な行動や、物に臆《お》じない振舞から見れば素人娘とは受け取れない。
「不思議だな、見当がつかない。……だが実に美しいものだ。しかしこの美には毒がある。触れた男を傷つける美だ」
 肩をならべて歩きながらも、警戒せざるを得なかった。
「ところで住居《すまい》はどの辺りかな?」
 こらえられずに訊いてみた。
「ハイ、日本橋でございます」
「日本橋はどの辺りかな?」
「あの伊丹屋という酒問屋で」
「はあ、伊丹屋、さようでござるか」
 義哉はちょっとびっくりした。伊丹屋といえば大家である。その名は彼にも聞えていた。
「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
 こうは云ったが愈々益々《いよいよますます》、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
 しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここが妾《わたくし》の家で」
 こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじ[#「もじもじ」に傍点]していたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
 こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳《あいびき》の宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
 苦笑せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸《くぐりど》があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。



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