国枝史郎「大捕物仙人壺」(19) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(19)

19

 ちょうど同じ夜の出来事である。
 岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。
 すると、その後を従《つ》けるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
 覆面の武士は幕府の重鎮勝安房守安芳《かつあわのかみやすよし》で、十人の武士は刺客なのであった。
 今日の東京の地図から云えば、日本橋区本石町《ほんごくちょう》を西の方へ向かって歩いていた。室町を経て日本橋へ出、京橋を通って銀座へ出、尾張町の辻を真直ぐに進み、芝口の辻までやって来た。
 この間二三度刺客達は、討ち果そうとして走りかかったが、安房守の威厳に搏《う》たれたものか、いつも途中で引き返してしまった。
 だが一体何のために勝安房守を殺そうとするのだろう? そうして一体刺客達は、どういう身分の者なのだろう。
 それを知りたいと思うなら、当時の歴史を調べなければならない。
 慶応《けいおう》三年九月であったが、土佐《とさ》の山内容堂《やまのうちようどう》侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。そこで一通の建白書を作り、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、この二人の家臣をして将軍慶喜に奉《たてまつ》らしめ、平和に大政を奉還せしめ、令政をして一途に出でしめ、世界の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都二条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢《しじゅん》した。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の旨を朝廷へ対して奏聞《そうもん》した。一日置いた十六日朝廷これを嘉納した。つづいて同月二十四日、慶喜は更に将軍職をも、辞退したき旨奏聞したが、これは保留ということになった。
 さて一方朝廷に於ては、施政方針を議定するため、小御所《こごしょ》で会議を行なわせられた。中山忠能《なかやまただよし》、正親町實愛《おおぎまちさねなる》、徳大寺實則《とくだいじさねのり》、岩倉具視《いわくらともみ》、徳川慶勝《とくがわよしかつ》、松平慶永《まつだいらよしかげ》、島津義久《しまづよしひさ》、山内容堂《やまのうちようどう》、西郷隆盛《さいごうたかもり》、大久保利通《おおくぼとしみち》、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。その結果諸般の改革を見、翌九日、天皇親臨《しんりん》、王政復古の大号令を下され、徳川幕府は十五代、二百六十五年を以て、政権朝廷に帰したのであった。
 慶喜に対する処置としては、内大臣を辞すること、封土一切を返すべきこと、この二カ条が決定された。
 旧幕臣は切歯した。慶喜としても快くなかった。会桑《かいそう》二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平容保《かたもち》、松平定敬《さだよし》、他幕臣が従った。
 こうして起ったのが維新史に名高い伏見鳥羽の戦いであった。明治元年正月三日から、六日に渡って行なわれたのであった。そうして幕軍大いに潰《つい》え、六日夜慶喜は回陽丸に乗じ、海路江戸へ遁竄《とんざん》した。
 ここでいよいよ朝廷に於ては、慶喜討伐の大軍を起され、江戸に向けて発することにした。有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王を征東大総督《せいとうだいそうとく》に仰ぎまつり、西郷隆盛《さいごうたかもり》参謀、薩長以下二十一藩、雲霞《うんか》の如き大軍は東海東山《とうかいとうざん》、北陸から、堂々として進出した。そうして三月十五日を以て、江戸総攻撃と決定された。
 江戸はほとんど湧き返った。旗本八万騎は奮起した。薩摩と雌雄を決しようとした。しかし聡明な徳川慶喜は、惰弱に慣れた旗本を以て、慓悍な薩長二藩[#「薩長二藩」は底本では「薩摩二藩」]の兵と、干戈《かんか》を交えるということの、不得策であることを察していた。それに外国が内乱に乗じ、侵略の野心を逞しゅうし、大日本国の社稷《しゃしょく》をして危からしめるということを、特に最も心痛した。そこで幕臣第一の新知識、勝安房守に一切を任せ、自身は上野の寛永寺に蟄居し、恭順の意を示すことにした。
 初名義邦《よしくに》、通称は麟太郎《りんたろう》、後安芳《やすよし》、号は海舟《かいしゅう》、幕末従《じゅう》五位下《いげ》安房守《あわのかみ》となり、軍艦奉行、陸軍総裁を経、さらに軍事取扱として、幕府陸海軍の実権を、文字通り一手に握っていたのが、当時の勝安房守安芳であった。武術は島田虎之助に学び、蘭学は永井青涯に師事し、一世を空《むなし》うする英雄であったが、慶喜に一切を任せられるに及び、大久保一翁、山岡鐡舟などと、東奔西走心胆を砕き、一方旗本の暴挙を訓め、他方官軍の江戸攻撃を食《く》い止めようと努力した。
 幕臣の中過激な者は、その安房守の遣り口を、手ぬるいと攻撃するばかりでなく、徳川を売って官軍に従《つ》く獅子身中の虫だと云って、暗殺しようとさえ企てた。
 それを避けなければならなかった。
 日々幕兵は脱走した。それを引き止めなければならなかった。
 で、この夜もただ一人府内《ふない》の動静を探ろうとして、こうして歩いているのであった。



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