国枝史郎「大捕物仙人壺」(20) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(20)

20

 芝口の辻を北へ曲がり安房守《あわのかみ》は悠々と歩いて行った。
 下桜田《しもさくらだ》[#「下桜田」はママ]まで来た時であった。ふと[#「ふと」に傍点]彼は足を止めた。その機会を狙ったのであろう、刺客の一人が群を離れ、颯《さっ》と安房守の背後に迫った。
 と、突然安房守が云った。
「うむ、日本は大丈夫だ! この騒乱の巷の中で、三味線を弾いている者がある。うむ、曲は『山姥《やまうば》』だな。……唄声にも乱れがない。撥《ばち》さばきも鮮《あざやか》なものだ。……いい度胸だな。感心な度胸だ。人は須《すべから》くこうなくてはならない。蠢動するばかりが能ではない。亢奮するばかりが能ではない。宇内《うだい》の大勢も心得ず、人斬包丁ばかり振り廻すのは人間の屑と云わなければならない。……いい音締だな小気味のよい音色だ」
 それは呟いているのではなく、大声で喋舌《しゃべ》っているのであった。背後に迫って来た刺客の一人へ、聞かせようとして喋舌っているらしい。
 宵ながら町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と寂れ、時々遙かの方角から脱走兵の打つらしい小銃の音が響いてきたが、その他には犬の声さえしない。
 その静寂を貫いて、咽ぶがような、清元の音色が、一脈綿々と流れてきた。
 刺客の一人は立ち止まり、じっと安房守を見守った。その安房守は背を向けたまま、平然として立っていた。まことに斬りよい姿勢であった。一刀に斬ることが出来そうであった。
 それだのに刺客は斬らなかった。一間ばかりの手前に立ち、ただじっと見詰めていた。彼は機先を制されたのであった。叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]するような安房守の言葉に、強く胸を打たれたのであった。しかし今にも抜き放そうとして、しっかり握っている右の手を柄から放そうとはしなかった。
「斬らなければならない! たたっ[#「たたっ」に傍点]斬らなければならない! 二股武士、勝安房守《かつあわのかみ》[#「勝安房守《かつあわのかみ》」は底本では「勝安房安《かつあはのかみ》」]! だが不思議だな、斬ることが出来ない」
 刺客の心は乱れていた。
 と、唄声がはっきり聞こえた。
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※[#歌記号、1-3-28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩の袂《たもと》かるやかに、返辞《へんじ》しおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
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 安房守は立っていた。同じ姿勢で立っていた。それからまたも喋舌り出した。
「女ではない、男だな。しかも一流の太夫らしい。一流となれば大したものだ。政治であれ剣道であれ、遊芸であれ官教であれ、一流となれば大したものだ。もっとも中には馬鹿な奴もある。剣技精妙第一流と、多くの人に立てられながら、物の道理に一向昏く無闇と人ばかり殺したがる。この安芳《やすよし》をさえ殺そうとする。馬鹿な奴だ。大馬鹿者だ。今この安芳を暗殺したら、慶喜公の御身はどうなると思う。徳川の家はどうなると思う。俺は官軍の者どもに、お命乞いをしているのだ。慶喜公のお命乞いを。……俺の命などはどうなってもよい。俺はいつもこう思っている。北条義時《ほうじょうよしとき》に笑われまいとな。実に義時は偉い奴だ。天下泰平のそのためには、甘んじて賊臣の汚名を受け、しかも俯仰天地《ふぎょうてんち》[#「俯仰天地」は底本では「俯抑天地」]に恥じず、どうどうと所信を貫いた。……俺は義時に則《のっと》ろうと思う。日本安全のそのためには、小の虫を殺し大の虫を助け、敢て賊子《ぞくし》に堕ちようと思う。……どだい薩長と戦って、勝てると思うのが間違いだ。いかんともしがたいは大勢だ。社会の新興勢力は、どんなことをしても抑制出来ぬ。王政維新は大勢だ。幕府から人心は離れている。それはもう旧勢力だ。利益のなくなった偶像だ。徳川の天下も二百六十年、そろそろ交替していい時だ。偶像を拝《おが》むのは惰性に過ぎない。こびり[#「こびり」に傍点]付くのは愚の話だ。新時代を逃がしてはいけない。日本を基礎にした世界主義! 国家を土台にした国際主義! これが当来の新思想だ。仏蘭西《フランス》を見ろ仏蘭西を! ナポレオン三世の奸雄《かんゆう》振のいかに恐ろしいかを見るがいい! 日本の国土を狙っているのだ。内乱に乗じて侵略し、利権を得ようと焦心《あせ》っているではないか。それだけでも内乱を止めなければならない。……第一江戸をどうするのだ。罪のない江戸の市民達を。兵戦にかけて悔いないのか。いやいやそれは絶対にいけない。江戸と市民は助けなければならない。そうして徳川の大屋台と慶喜公とは助けなければならない。……どいつもこいつも血迷っている。醒めているのは俺だけだ。俺がそいつらを助けなかったら、一体誰が助けるのだ。俺を絶対に殺すことは出来ぬ。殺したが最後日本は闇だ。……官軍の中にも解《わか》る奴がいる。他でもない西郷だ。西郷吉之助ただ一人だ。で俺はきゃつに邂逅《ゆきあ》い、赤心を披瀝して談じるつもりだ。解ってくれるに相違ない。そこで江戸と江戸の市民と、徳川家と慶喜公とは、助けることが出来るのだ。その結果内乱は終息し、日本の国家は平和となり、上下合一、官民一致、天皇帰一、八紘《こう》一宇《う》、新時代が生れるのだ」



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