国枝史郎「大捕物仙人壺」(27) (おおとりものせんにんつぼ)

国枝史郎「大捕物仙人壺」(27)

27

 ここは深川の木賃宿である。香具師《やし》の親方の「釜無の文」は、手下の銅助を向うに廻し、いい気持に喋舌《しゃべ》っていた。傍に檻が置いてあり、中に大鼬が眠っていた。
 二人の前には壺と地図とが、大切そうに置いてあった。
 窓から夏の陽が射していて、喚気法の悪い部屋の中は、汗ばむ程に熱かった。
「……と、つまり、云うわけさ。ナーニ、ちょろりと横取りしたのさ。へん、えて[#「えて」に傍点]物さえ使ったらどんな宝物だって盗まれるんだからな」
 得意そうに文は話し出した。
「ところで親方、その壺には、何が入っているんですえ?」こう不思議そうに銅助は訊いた。姦悪の相の持主で、文に負けない悪党らしかった。
「そいつア俺にも解らねえ」文は渋面を作ったが、「福の神だということだ。とにかくこいつ[#「こいつ」に傍点]を持っていると、いい目が出るということだ……これはな、伝説による時は、支那から渡ったものだそうな。甲府のお城にあったものさ。元禄《げんろく》時代の将軍家、館林《たてばやし》の綱吉《つなよし》様が、ある時お手に入れられた所、間もなく江戸城お乗込み、将軍職に就かれたそうだ。そのお気に入りの柳沢侯[#「侯」は底本では「候」]、最初は微祿であられた所が、この壺を借りたその日から、トントン拍子に出世されたそうだ。……で、この壺はそれ以来、甲府勤番御支配頭の、保管に嘱《しょく》していたものだそうな。そうして甲府城の土蔵の奥に大切に仕舞《しま》って置かれたんだそうな。……そいつを「爺《とっ》つあん」が盗み出したのよ」
「へえ「爺つあん」? 葉村《はむら》のかえ?」
「うん、そうさ、あの葉村のな。……今こそ玉乗《たまのり》の親方か何かで、真面目に暮らしているけれど、昔はどうして大悪党よ、俺ら以上の悪党だったのさ」
「だがおかしいね、その「爺つあん」が、どうして手に入れた宝壺を、釜無の岸へなんか埋めたんだろう?」
「そいつア俺にも解らねえ」
「それに本当にその壺が、そんなに大した福の神なら、あの葉村の「爺つあん」も、もっと出世していいはずだが、たいして出世もしねえようだね」
「うん、そう云やアその通りだが、そこには曰《いわく》があるんだろう。豚に真珠という格言もあらあ、せっかくの宝も持手が悪いと、ねっから役に立たねえものさ」
「今度は親方が手に入れたんだ、どうかマア旨く役立つといいが」
「役立つとも役立つとも。俺らきっと役立たせてみせる。伝説によるとこの壺は夜な夜な不思議をするそうだ」
「へえ、不思議をね? どんな不思議だろうな」銅助は怪訝な顔をした。
「そいつも今の所わからねえ。この福の神を手に入れてから、まだ一晩も寝て見ねえんだからな」
「そうすると今夜が楽しみですね。小判の雨でも降るかもしれねえ」
 宝壺! 宝壺! ほんとに怪異など起きだすだろうか?
 果然怪異は起こったのであった。
 深夜、壺は音楽を奏した。
 非常に微妙な音楽であった。
 同時に人々は亢奮《こうふん》した。鼬《いたち》が檻を食い破り、主人の喉笛へ喰らい付いた。
 それは決して福の神ではなく、むしろ災難《わざわい》の神であった。
「釜無の文」は喰い殺された。
 次にこの壺を手に入れたのは、文の手下の銅助であった。
「うん、俺は大丈夫だ。きっと福の神にして見せる」
 で、それを枕元へ置き、安らかに眠ったことである。
 すると、音楽が聞こえてきた。彼はにわかに胸苦しくなり、無宙《むちゅう》で飛び起きて駈け廻った。
 そうして柱へ頭を打ちつけ、血を吐いて死んでしまった。
 損をしたのは木賃宿の亭主で、その月の宿賃をフイにした。そこで銅助の持物を一切バッタに売ることにした。
 そこで、その壺と付属地図とはある古道具屋の手に渡った。

 この間に世間は一変し、世は王政維新となり、そうして奠都《てんと》が行なわれた。
 江戸が東京と改名され、大名はいずれも華族となり、一世の豪傑勝安房守《かつあわのかみ》も、伯爵の栄爵を授けられた。
 ところで義哉《よしや》はどうしたろう?
 義哉は清元の太夫《たゆう》となった。
 ところでお錦《きん》はどうしたろう?
 お錦の身の上にも変化があった。まず許嫁《いいなづけ》の伊太郎《いたろう》が、肺を病んで病没した。そうして大家伊丹屋は、維新の変動で没落した。
 そこで、お錦は自然の勢いで、小堀義哉の女房となった。二人にとってはこのことは、願ってもない幸いであった。勿論琴瑟《きんしつ》相和した。
 義哉の芸名は延太夫《えんだゆう》と云った。
 即ち清元延太夫《きよもとえんだゆう》である。もとが立派な旗本で、芸風に非常な気品があった。それが上流に愛されて、豊かな生活をすることが出来た。
 貴顕富豪《きけんふごう》に持て囃《はや》され、引っ張り凧の有様であった。
 勝海舟は風流人で、茶屋の女将や相撲取や諸芸人を贔屓《ひいき》にした。
 そこで、延太夫の小堀義哉も、よく屋敷へ招かれた。



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