国枝史郎「大鵬のゆくえ」(05) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(5)

    土佐の名画喜撰法師

「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。
「さよう菊でございますよ」
 専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」
「で、奪われた品物は?」
「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」
「ほほう」とこれには紋太郎も吃驚《びっくり》したように目を見張った。
「では小町と黒主をな?」
「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」
 専斎は今日は言葉少い。ひどく落胆《きおち》しているらしい。

 自宅《うち》へ帰って来た紋太郎はニヤニヤ笑いを洩らしている。皮肉の笑いとも受け取られ笑止の表情とも見受けられる。
 ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。
「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」
 云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。
「旦那様」
 と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
 はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
 云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘《たちばな》奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」
「さては無頼者《やくざもの》でござりますな」
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
 紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯《じゃくおう》と見え声が若い。
 と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「何程《いかほど》のお値打ちがございましょうな?」
「専斎殿の鑑定《めきき》によれは、捨て売りにしても五十両。好事家《こうずか》などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」
「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。



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