国枝史郎「大鵬のゆくえ」(06) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(6)

    尾行の主は?

「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
 しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
 と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも皆済《かいさい》することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。

 その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
 彼は渋面を作っている。足が疲労《つか》れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行《つけ》られているのであった。
 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢《きたな》らしい爺さんが歩いている。
 穢さ加減が酷《ひど》いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。
 ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ[#「ずぶ」に傍点]若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
 頭はおおかた禿げているが諸所《ところどころ》に白髪《しらが》がある。河原に残った枯れ芒《すすき》と形容したいような白髪である。黄色い色の萎《しな》びた顔。蛇のように蜒《うね》っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月《むつき》だというのに手に渋団扇《しぶうちわ》を持っている。脛から下は露出《むきだし》で足に穿《は》いたのは冷飯草履《ひやめしぞうり》。……この風態で尾行《つけ》られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦《がね》を掛けているのは何んの呪禁《まじない》だか知らないけれど益※[#二の字点、1-2-22]仁態を凄く見せる。それで時々ニタリと笑う。いかさまこれでは魘《うな》されようもしれぬ。
「こいつどうぞしてマキたいものだ」
 紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。
 大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。
 ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。
「おおそうだ、やり過ごしてやろう」
 思案を決めると紋太郎は道側《みちばた》の石へ腰をおろした。それから懐中《ふところ》から煙管《きせる》を取り出し静かに煙草をふかし出した。



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