国枝史郎「大鵬のゆくえ」(08) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(8)

    刺青の女賊

 それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。
 もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の背後《うしろ》から小粋な男が従いて来た。だんだんこっちへ近寄って来る。「貧乏神などと馬鹿にしてもさすがは神と名が付くだけに飛天隠形《ひてんおんぎょう》自在と見える」
 学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。
 若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。
 ふと女を見た紋太郎は、
「おや」といってまた眼を見張った。
 その時プ――ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き除《の》けたその拍子にツルリと袖が腕を辷り、露出した白い二の腕一杯桜の刺青《ほりもの》がほってある。
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥《りゅうべつ》したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
 やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」

「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒《ふきやづつ》を持っている。部屋へ通るとその後から三右衛門が嬉しそうに従《つ》いて来た。
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で何程《いかほど》に売れましたかな?」
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括《たばね》嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰《しか》めながらさも不安そうに云うのであった。
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業《はやわざ》でな。あれには俺も感心したよ」
 紋太郎は一向平気である。
 余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
 紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」



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