国枝史郎「大鵬のゆくえ」(10) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(10)

    大御所家斉公

 ある日、紋太郎は吹筒を携《たずさ》え多摩川の方へ出かけて行った。
 多摩川に曝《さら》す手作りさらさらに何ぞこの女《こ》の許多《ここだ》恋《かな》しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
 こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸《ひわ》、鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+葛」、第3水準1-87-81]《かり》などがはち切れるほどに詰まっていた。
 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
 その一群れは足並揃えて粛々《しゅくしゅく》とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美《きらびやか》の服装《よそおい》である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌《かお》は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付《たっつけ》、揃いの笠で半面を蔽い、寛《くつろ》いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
 紋太郎は心中審《いぶか》りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
 鷹狩りの群れは近寄って来る。
 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金《きん》蒔絵《まきえ》されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
 紋太郎はハッと呼吸《いき》を呑んだ。持っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。
 鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
 と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
 こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
 こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
 キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天《すいてん》の大鵬《たいほう》と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
 グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
 家斉公はまじろぎ[#「まじろぎ」に傍点]もせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と返辞《いら》えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
 近習の捧げる重籐《しげどう》の弓をむず[#「むず」に傍点]と握って矢をつがえたが、二間余りつと[#「つと」に傍点]進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然《かつぜん》たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっ[#「ひょうふっ」に傍点]と切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
 心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座《かしこ》まる。



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