国枝史郎「大鵬のゆくえ」(12) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(12)

    奇怪な迎駕籠

 ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
「大学頭《だいがくのかみ》林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」
 これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
 で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者《つかい》はこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
 専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつら[#「うつらうつら」に傍点]と眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
 その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
 すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
 こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
 専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
 専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。誘拐《かどわか》しだ」
 彼はじたばた[#「じたばた」に傍点]もがき出した。
 そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
 専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな爺《じじい》を誘拐したところでたいしていい値《ね》にも売れまいにな。……精々《せいぜい》のところで別荘番。……おや今度は左へ廻った。……じたばた[#「じたばた」に傍点]したって仕方がない。生命《いのち》まで取るとはいわないだろう。……まあまあ穏《おとな》しくしていることだ。……そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」
 臍《ほぞ》を固めた専斎はじたばた[#「じたばた」に傍点]するのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。
 駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
 それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然駕籠側《かごわき》にいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。



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