国枝史郎「大鵬のゆくえ」(13) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(13)

    桃色の肉に黄金色の毛

 こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが緩《のろ》くなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
 というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
 突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの幽《かす》かな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油を除《の》ける音。それからピ――ンと錠の音がした。
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
 などと凄い話し声がする。と、ス――と扉《と》があいた。
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
 と専斎は這い出した。朦朧《もうろう》と四辺《あたり》は薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。
 その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀《ちいさがたな》を前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。
「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高《うずたか》く夜具《よるのもの》が敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも嗄《しわが》れた声音《こわね》である。
「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっ[#「ぞっ」に傍点]と身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は呼吸《いき》を呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所《ひとところ》スーと小刀で切ったものである。
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。産毛《うぶげ》が一面に生えていたが色はあざやか[#「あざやか」に傍点]な黄金色《こがねいろ》であった。人間の肌には相違ない。が、しかし、その人間が……肉の一所が脹れ上がり見るも恐ろしい紫色に変色してるばかりでなくその真ん中と思われる辺に一つの小さい突き傷があり突き傷は随分深そうであった。細い鋭利な金属性の物で深く刺されたものらしい。
 この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が緊張《ひきし》まった。つまり医師としての自尊心が勃然湧き起こったからであろう。彼は片手をズイと差し込みそろそろと肌にさわって見た。
「……第一肋《あばら》。……第二肋。……うむ別に異状なし。……肺の臓? ええと待てよ…… ふむ、なるほど。ちとあぶなかったな。……しかし、まずまず危険には遠い。……あっ、しまった! 肺尖《はいせん》が! ……」
 心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……」
「専斎殿、お診断《みたて》は?」
 覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな……」
「さようでござるかな。それで安心。……」老人はホ――ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。



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