国枝史郎「大鵬のゆくえ」(14) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(14)

    ここにもある六歌仙

 専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じく鋸《のこぎり》、同じく槌、それから幾本かのピンセット。――外科の道具を抜き出したが、まず一本のナイフを握ると一膝膝をいざり[#「いざり」に傍点]出た。……患部へ宛ててスッと引く。タラタラと流れ出る真っ赤の血を用意の布《きれ》で拭《ぬぐ》い眼にも止まらぬ早業で手術の手筈を付けて行く。
 もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋の態《さま》も、痩せた覆面の老人の姿も、確かに人間ではあるけれど人間ならぬ不思議な肌の小気味の悪い患者のことも、ほとんど存在していなかった。彼の心にあるものは、危険性を持った奇怪な傷をどうしたらうまく癒せるかという医師的責任感ばかりであった。
 こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻き了《お》えると、
「これでよろしい」と静かにいった。「熟《う》みさえせねば大丈夫でござる」
「熟《う》みさえせねば?」と不安そうに、「いかがでござろう熟みましょうかな?」声は不安に充ちている。
「いや、九分九厘……大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
 いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく……」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
 一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて四辺《あたり》の様子を盗み眼《まなこ》で見廻した。部屋の広さは百畳敷もあろうか古色蒼然といいたいが事実はそれと反対で、ほんの最近に造ったものらしく木の香のするほど真新しい。横手にこじんまり[#「こじんまり」に傍点]とした床の間があった。二幅の軸が掛かっている。
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
 それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
 また専斎は呟いた。
 それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだということは一見すれば解るのであった。
「どれ寄って拝見しよう」
 腰を上げようとした時である。正面の障子が音もなく開いた。「人が来たな」とひょい[#「ひょい」に傍点]と見たが、障子の向こうに、縁側があり縁側の外れに雨戸がありその雨戸が細目に開いて庭園の一部が見えているばかり人らしいものの影もない。また専斎はゾッとした。冷たい汗が背を流れる。
「わっ! たまらねえ! 化物屋敷だア」
 叫ぼうとした時、障子の隙へ奇妙な顔が現われた。
「だ、誰だア!」
 と声を掛ける。とたんに破れた渋団扇が障子の間からフワリと出た。それから素足がニョッキリと出てやがて全身を現わしたのを見ると、専斎はキョトンと眼を円くした。もちろん恐怖もあったけれどむしろそれよりはおかしかった。まずその男の風彩は僧でもあり俗でもあった。鼠の衣裳に墨染めの衣、胸に叩き鐘を掛けている。腰に下げたは頭陀袋《ずだぶくろ》で手首に珠数を掛けている。頭は悉皆《しっかい》禿げていたがそれでも秋の芒のようにチョンビリと白髪《しらが》が残っている。そうして酷《ひど》く年寄である。それが渋団扇を持っているのだ。
「誰だ?」と専斎はもう一度いった。
「貧乏神さ。ごらんの通りね」
「貧乏神だ? どこから来た!」
「フフフフお前さんの家からさ」
 いいすてるとスルスルと床の間の方へ貧乏神は歩いて行った。
「どこへ行く!」といいながら専斎はヌッと立ち上がった。



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