国枝史郎「大鵬のゆくえ」(16) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(16)

    紋太郎熟慮

 これはおかしいと思ったので、
「専斎先生どうなされましたな? お顔の色が勝れぬが?」
「いや」と専斎はちょっとあわて、「実に全くこの世の中には不思議なことがござりますなア」
 取って付けたようにこう云ったが、
「藪殿、実はな、この私《わし》にも不思議なことがあったのでござるよ」
「ははあ、不思議とおっしゃいますと?」紋太郎は聞き耳[#「聞き耳」は底本では「聞み耳」]を立てる。
「……それがどうもいえませんて、口止めをされておりますのでな」
「なるほど、それではいえますまい」
「ところが私《わし》としてはいいたいのじゃ」
「秘密というものはいってしまいたいもので」
「一人で胸に持っているのがどうにも私には不安でな。――昨夜、それも夜中でござるが、化物屋敷へ行きましてな、不思議な怪我人を療治しました。……無論人間には相違ないが、肌が美しい桃色でな。それに産毛《うぶげ》が黄金色じゃ。……細い細い突き傷が一つ。そのまた傷の鋭さときたら。おおそうそうそっくりそうだ! 藪殿が得意でおやりになるあの吹矢で射ったような傷! それを療治しましたのさ。……ところで私はその邸で珍らしいものを見ましたよ。六歌仙の軸を見ましたのさ。……見たといえばもう一つ貧乏神を見ましてな。いやこれには嚇《おど》かされましたよ。……邸からして不気味でしてな。百畳敷の新築の座敷に金屏風が一枚立ててある。その裾の辺に老人がいる。十徳を着た痩せた武士でな。その陰々としていることは。まず幽霊とはあんなものですかね」
 こんな調子に専斎は、恐ろしかった昨夜の経験を悉く紋太郎に話したものである。
 紋太郎は黙って聞いていたが、彼の心中にはこの時一つの恐ろしい疑問が湧いたのであった。
 彼は自分の家へ帰ると部屋の中へ閉じ籠もり何やら熱心に考え出した。それから図面を調べ出した。江戸市中の図面である。
 それから彼は暇にまかせて江戸市中を歩き廻った。

 今夜のことご他言無用、もし他言なされる時は御身《おんみ》のためよろしくござらぬと、痩せた老人に注意されたのを、その翌日他愛なく破り、一切紋太郎にぶちまけたので、その祟りが来たのでもあろうか、(いや、そうでもないらしいが)とにかく専斎の身の上に一つの喜悲劇が起こったのはそれから間もなくのことであった。
 その日、専斎は六歌仙のうち、手に残った黒主の軸を床の間へかけて眺めていた。
「うむ、いつ見ても悪くはないな。それにしても惜しいのはお菊に盗まれた小野小町だ」
 いつも思う事をその時も思い、飽かず画面に見入っていた。もうその時は点燈頃《ひともしごろ》で、部屋の中は暗かったが、彼は故意《わざ》と火を呼ばず、黄昏《たそがれ》の微光の射し込む中でいつまでも坐って眺めていた。
 と、あろう事かあるまい事か、彼の眼の前で大友黒主が、次第に薄れて行くではないか。
「おやおや変だぞ。これはおかしい」
 驚いて見ているそのうちに黒主の絵は全く消え似ても似つかぬ異形の人物が朦朧《もうろう》とその後へ現われたが、よく見ればこれぞ貧乏神で、ニタリと一つ気味悪く笑うとスルスルと画面から抜け出した。見る見るうちに大きくなり、ニョッキリ前へ立ちはだかっ[#「はだかっ」に傍点]た。
 それが横へ逸《そ》れるかと思うと、庭の方へ歩いて行く。
「泥棒!」
 とばかり飛び上がり、恐さも忘れて組み付いた。ひょい[#「ひょい」に傍点]と飜《かわ》した身の軽さ。フワリと一つ団扇《うちわ》で煽《あお》ぎ、
「これこれ何んだ勿体ない! 俺は神じゃぞ貧乏神じゃ! 燈明を上げい、お燈明をな! 隣家の藪殿を見習うがよい。フフフフ、へぼ[#「へぼ」に傍点]医者殿」



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