国枝史郎「大鵬のゆくえ」(17) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(17)

    禍福塀一重

 お菊に軸を盗まれて以来、家族の者は一様に神経質になっていたが、「泥棒」という専斎の声が主人の部屋から聞こえると共に一斉に外へ飛び出した。出口入り口を固めたのである。
「庭へ出た! 裏庭へ廻れ!」専斎の声がまた聞こえた。
 その裏庭には屈強の弟子が三人まで固めていたが、薄穢いよぼよぼの老人が築山の裾をぐるりと廻り此方《こなた》へチョコチョコ走って来るので、不審の顔を見合わせた。
「まさか彼奴《きゃつ》じゃあるまいね」佐伯と云うのが囁いた。
「そうさ、あいつじゃあるまいよ。泥棒にしちゃ威勢が悪い」本田と云うのが囁き返す。
「しかし」と云ったのは山内というので、「変に見慣れない爺《じじい》じゃないか」
 その見慣れない変な爺《おやじ》はスーッとこの時走り寄って来たが、
「へい、皆様ご苦労様で」ひょこん[#「ひょこん」に傍点]と一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その爺《おやじ》を捕まえろ! その爺が泥棒だ!」
 あっ[#「あっ」に傍点]と云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それ[#「それ」に傍点]っと云うので追っかける。その後から専斎が喘《あえ》ぎ喘ぎ走る。
 貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと頂上《てっぺん》まで駈け上がったがそこでぐるり[#「ぐるり」に傍点]と振り返り、きわめて劇的の身振りをすると、
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
 ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」

 この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
 呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。私《わし》じゃ私じゃ」
 ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって……」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳《ちょうじょう》重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ」
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても……」
「何んでもござらぬ。隠匿《かくま》ってくだされ」
「はて隠匿《かくま》うとおっしゃいますのは? ああ解りました。では[#「では」に傍点]あなた様は、また当邸へおいでなさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ[#「ヘボ」に傍点]医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」



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