国枝史郎「大鵬のゆくえ」(26) (おおとりのゆくえ)

国枝史郎「大鵬のゆくえ」(26)

    駕籠を追って

 馬の鈴音、鳥の声、竹に雀はの馬子の唄に、ハッと驚いて眼を覚すと紋太郎は急いで刎ね起きた。雨戸の隙から明けの微茫が蒼く仄々《ほのぼの》と射している。
 その時使女《こおんな》が障子をあけた。
「もうお目覚めでございますか。お顔をお洗いなさりませ」
「うん」といって廊下へ出る。
「階下《した》のお客様はまだ立つまいな?」
 何気なく女に訊いてみた。
「階下《した》のお客様とおっしゃいますと?」
「駕籠を座敷まで運ばせた客だ」
「はいまだお立ちではございません」
「駕籠の中には誰がいたな」
「さあそれがどうも解りませんので」
「解らないとは不思議ではないか」
「駕籠からお出になりません」
「食事などはどうするな」
「二人の若いお武家様が駕籠までお運びになられます」
「ふうむ、不思議なお客だな」
「不思議なお客様でございます」
「ええと、ところで二頭の馬、そうだあの馬はどうしているな?」
「厩舎《うまや》につないでございます」
「重そうな荷物を着けていたが」
「重そうな荷物でございます」
「あの荷物はどうしてあるな?」
「やはり二人のお武家様が自分で下ろして自分で片付け、決して人手に掛けませんそうで」
「何がはいっているのであろう?」
「何がはいっておりますやら」
「鳥の死骸ではあるまいかな」
「え?」
 と女は眼を丸くした。
「大きな鳥の死骸」
「あれマア旦那様、何をおっしゃるやら」
 笑いながら行ってしまった。
 ざっと洗って部屋へ戻る。
 まず茶が出てすぐに飯。そこそこに食《したた》めて煙草《たばこ》を飲む、茶代をはずみ宿賃を払い門口の気勢《けはい》に耳を澄ますと「お立ち」という大勢の声。
 そこで紋太郎も部屋を出た。玄関へつかつか行って見るとまさに駕籠が出ようとしていて往来には二頭の馬がいる。
 やがて駕籠脇に武士が付いて一行粛々と歩き出した。
「お大事に遊ばせ」「またお帰りに」こういう声を聞き流し紋太郎も続いて宿を出た。
 今日も晴れた小春日和で街道は織るような人通りだ。商人、僧侶、農夫、乞食、女も行けば子供も行く。犬の吠え声、凧《たこ》の唸り、馬の嘶《いななき》、座頭の高声、弥次郎兵衛も来れば喜太八も来る。名に負う江戸の大手筋東海道の賑やかさは今も昔も変わりがない。
 その人通りを縫いながら駕籠と馬とは西へ下った。そうしてそれを追うようにして紋太郎も西へ下るのであった。
 藤沢も越え平塚も過ぎ大磯の宿を出外れた時、何に驚いたか紋太郎は「おや」といって立ち止まった。
「これは驚いた、貧乏神が行く」
 なるほど、彼から五間ほどの前を――例の駕籠のすぐ後から――後ろ姿ではあるけれど、渋団扇を持ち腰衣を着けた、紛《まご》うようもない貧乏神がノコノコ暢気《のんき》そうに歩いて行く。
「黙っているのも失礼にあたる。どれ追い付いて話しかけて見よう」
 こう思って足を早めると、貧乏神も足を早め、見る見る駕籠を追い抜いてしまった。
「よしそれでは緩《ゆっく》り行こう」――紋太郎はそこで足をゆるめた。
 するとやはり貧乏神も、ゆっくりノロノロと歩くのであった。
 こうして一行は馬入川も越し点燈頃《ひともしごろ》に小田原へはいった。
 越前屋という立派な旅籠屋。そこが一行の宿と決まる。

 戸外《そと》では雪が降っている。
 旅籠屋の夜は更けていた。人々はおおかたねむったと見えて鼾《いびき》の声が聞こえるばかり、他には何んの音もない。
 静かに紋太郎は立ち上がった。障子を開け廊下へ出、階段の方へ歩いて行く。
 階段を下りると階下の廊下で、それを右の方へ少し行くと、目差す部屋の前へ、出られるのであった。
 そろそろと廊下を伝いながらも紋太郎は気が咎めた。胸が恐ろしくわくわくする。しかし目差すその部屋がすぐ眼の前に見えた時にはぐっと[#「ぐっと」に傍点]勇気を揮い起こしたが、その部屋の前に彼より先に、一人の異形な人間が部屋の様子を窺いながらじっと[#「じっと」に傍点]佇んでいるのを見ると仰天せざるを得なかった。しかも異形のその人間は渋団扇を持った貧乏神である。
「むう、不思議! これは不思議!」
 ――思わず紋太郎が唸ったのはまさにもっとものことである。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送