国枝史郎「天草四郎の妖術」(4) (あまくさしろうのようじゅつ)

国枝史郎「天草四郎の妖術」(4)

     四

「ちょいとちょいと可愛らしい坊ちゃん」
 斯う云い乍ら急に娘は四郎の側へ参りましたが如何にも早熟《ませ》た物腰で四郎の手を堅く握りました。
「妾《わたし》ね、貴郎を待っていましたのよ。ずっとずっと昔からね。遂々逢えたのね、嬉いわ。……貴郎増田四郎さんでしょう。妾の名を聞かせてあげましょうか。妾ずっとずっとの大昔猶太《ユダヤ》という遠い国の熱い沙漠にいた頃は聖母マリアと云われていましたの。そうして今も聖母マリアよ。でもね、日本の人達は妾を大変虐めますのよ。だから迂濶々々歩けないの隠れていなけりゃならないの。……だから貴郎にお願いします。妾を自由にして下さい。隠れ場所から出して下さい」
「だって何処に隠れているの?」――四郎は不思議そうに尋ねました。
「それはね、人の胸の中に」
「マリアお姫さん。斯ういう名ね?」
「ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ」
「大変長い名なんですね」
「愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね」
「そのお爺さんは何う云う人?」
「森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ」
「その人、魔法を使うんですね」
「あれは切支丹伴天連の法よ」
「ああいう事行《や》って見たいなあ」
「ええええ貴郎にも出来ますとも。もっと不思議なことが出来ますよ。貴郎の美しさは神のようです。その貴郎の美しさは選ばれた人の美しさです。妾はどんなに貴郎のような美しい人を待っていたでしょう。妾は貴郎の美貌を使って妾達の持っている宗教を世間に拡めなければなりません」
 斯う云い乍ら其娘は懐中から十字架を取り出しましたが夫れを四郎の首へ掛けました。
 と其瞬間から四郎の人物はガラリ一変致しまして近代科学で説明しますれば所謂性格転換とでも云おうか、怜悧聰明並ぶもの無い麒麟児となったのでございます。が併し夫れは後で説くとして、此時眠っていた老人が――即ち森宗意軒が眠りから醒めて起き上がりましたが、
「ややこれは迂濶千万。出し放しとは気がつかなかった」斯う云い乍ら酔眼を拭り、皿や火鉢を取り上るとポンポン口の中へ抛り込みましたが、最後に娘を引き寄せると膝の上へ抱き上げました。と其体が小さくなる。夫れを口中へ抛り込む。そうして其儘行きかけましたが、何気無く四郎を認めますとハッとばかりに大地へ坐り両手を土へ突きました。
「天童降来。天童降来。ははッ、お目見得を仰せつかり忝けのう存じます[#「忝けのう存じます」は底本では「恭けのう存じます」]」斯う云って平伏したのです。
 すると、四郎は其瞬間から、自分を天より遣わされたる天使であると思い込みました。
「おお其方は森宗意軒か」言葉迄も全然変り「私は宗旨を拡めるため天から遣わされた童児であるぞ」
「尊い尊い天の童児様! 尊い尊い天の童児様!」
「見ろ、私は義軍を起こし、キリストとマリアとを守るであろう!」
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」宗意軒は斯う云って十字を切りました。
「……われは命のパンなり。われに来たる者は飢えず。我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。……」突然四郎は立ち上がり斯う威厳を以て叫びましたが、是は聖書の文句なのです。しかし四郎は白痴でした。曾て其様な聖書などを読んだことなどは無い筈です。
 と、四郎は手を上げて、
「月よ、血の如く赤くなれよ! そのキリストの血に依って!」こう大声で呼びました。忽然、今まで澄んでいた橙色の春の月が、血色に変ったではありませんか。第一の奇蹟の成功です。
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」
 と、其間も森宗意軒は讃美の声を絶とうとはせず、繰返えし繰返えし唱えるのでした。
 それは誠に神秘壮厳の一幅の絵画と云うべきでした。黒い森。赤い月。仙人のような白髪の翁。そうして総る人界の美を一身に集めた稀有の美童。……ハライソという神寂びた声!
 夜はもう半ばを過ぎてしまった。



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