国枝史郎「鴉片(あへん)を喫む美少年」(1) (あへん)

国枝史郎「鴉片(あへん)を喫む美少年」(1)



(水戸の武士早川弥五郎が、清国上海《シャンハイ》へ漂流し、十数年間上海に居り、故郷の友人吉田惣蔵へ、数回長い消息をした。その消息を現代文に書きかえ、敷衍し潤色したものがこの作である。――作者附記)

 友よ、今日は「鴉片を喫む美少年」の事について消息しよう。
 鴉片戦争も酣《たけなわ》となった。清廷の譎詐《きっさ》[#「譎詐」は底本では「譎作」]と偽瞞とは、云う迄もなくよくないが、英国のやり口もよくないよ。
 いや英国のやり口の方が、遥かにもっとよくないのだ。
 何しろ今度の戦争の原因が、清国の国禁を英国商人が破り、広東で数万函の鴉片を輸入し――しかも堂々たる密輸入をしたのを、硬骨蛮勇の両広《りょうこう》総督、林則徐《りんそくじょ》が怒って英国領事、エリオットをはじめとして英国人の多数を、打尽して獄に投じたことなのだからね。
 が、まあそんなことはどうでもよいとして「鴉片を喫む美少年」の話をしよう。
 僕といえども鴉片を喫むのだ。他に楽しみがないのだからね。日本を離れて八年になる。△△三年×月□□日、釣りに品川沖へ出て行って、意外のしけ[#「しけ」に傍点]にぶつかって、舟が流れて外海へ出、一日漂流したところを、外国通いの外国船に救われ、その船が上海へ寄港した時、その船から下ろされて、そのまま今日に及んだんだからね。今の境遇では日本の国へ、いつ帰れるとも解《わか》らない。藩籍からも除かれたそうだし、何か国禁でも犯したかのように、幕府の有司などは誤解していると、君からの手紙にあったので、せっかく日本へ帰ったところで、面白いことがないばかりか、冷遇されるだろうから、帰国しようと思っていないのさ。
 しかし一日として日本のことを、思わない日はないのだよ。勿論妻も子供もないから、君侯のことや朋輩のことや――わけても君、吉田惣蔵君のことを、何事につけても思い出すのだがね。
 黄浦《ホアンプー》[#ルビの「ホアンプー」は底本では「ホアシプー」]河の岸に楊柳《ようりゅう》の花が咲いて散って空に飜えり、旗亭や茶館や画舫などへ、鵞毛のように降りかかる季節、四五月の季節が来ようものなら、わけても日本がなつかしくなるよ。
 楊柳の花! 楊柳の花!
 友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!
 詩人李白が詠《うた》ったっけ。――
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楊花落尽子規啼《ようかおちつくしてしきなく》。
聞道竜標過五渓《きくならくりゅうひょうごけいをすぐと》。
我寄愁心与明月《われしゅうしんをよせてめいげつにあたう》。
随風直到夜郎西《かぜにしたがってただちにやろうのにしにいたる》。
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 詩人王維も詠ったっけ。――
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花外江頭坐不帰《かがいこうとうざしてかえらず》。
水晶宮殿転霏微《すいしょうきゅうでんうたたひび》。
桃花細逐楊花落《とうかこまかにようかをおっておつ》。
黄鳥時兼白鳥飛《こうちょうときにははくちょうをかねてとぶ》。
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 が、今は楊柳の花が、僕の心を感傷的にする、そういう季節ではないのだよ。しかし僕の語ろうとする「鴉片を喫む美少年」の物語の、主人公の美少年と逢ったのは、その今年の楊柳の花が、咲き揃っている季節だった。
 その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。
 その家は外観《みかけ》は薬種屋なのだ。
 しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟の俤《おもかげ》が、眼前に展開されるのさ。
 闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。
 僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。
 度々来て鴉片を喫《の》む僕にとっては、悪臭と煙と人いきれ[#「いきれ」に傍点]と暗い火影と濁った空気と、幽鬼じみて見える鴉片常用者と、不潔な寝台と淫蕩な枕と、青い焔を立てている、煙燈《エント》の火がむしろ懐かしく、微笑をさえもするのだが、そうでない君のような人間が、突然こんな部屋へやって来たら、その陰惨とした光景に、きっと眼を蔽うことだろうよ。



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